腐ったイザナミの身体には、なぜ雷神が成っていたのか。神が体に発生するのは悪いことなのか。 / 死者にも生者にも一緒に行けないことを分からせるというのは、お葬式から帰ったとき、家に入る前に塩を撒いたりするのと関係があるのでしょうか?

授業でもお話ししましたが、落雷は稲作における豊穣のシンボルであると同時に、巨大なエネルギーを持ち実質的な被害も生む、「怖ろしいもの」の代表でもありました。イザナミの身体に雷神が成っているというのは、体の各所が「ものすごい状態」、具体的には腐乱が著しい状態になっており、それを、「巨大なエネルギーを持つ雷神が幾つも宿っている」と表現したものでしょう。神が神を宿すこと自体は、そもそもイザナミが日本列島に関わるさまざまな神々を産み落としていったわけで、悪いことではありません。『古事記』では、黄泉から帰還したイザナキがそのケガレを落とす際、アマテラス・ツクヨミ・スサノヲの三貴神が生まれています。なおこのケガレは、10世紀の『延喜式』で制度化され(ケガレの程度や感染、解除の過程・仕組みなどを成文化してもの)、中世を通じて被差別部落をも生み出してゆくようなケガレ文化とは異なり(特定の人々に実体化され、解除不可能となったもの)、直感的なプリミティヴなものです。しかし、上にも書いたように、ベクトルを転換することでカミをも生み出すようなエネルギー体でもありました。現代の葬儀に使用される塩は、『延喜式』のケガレ文化に連なるものですが、いわば死や死者をケガレを生み出すもの、生者に害をなすものとの発想を持ち、葬儀従事者への差別をも醸成する危険を持つので、宗派によっては使用を認めていないところもあります。

歴史上、絵巻や文書などで、黄泉国はどのような捉え方をされ、どのように描かれているのでしょう。

残念ながら、人口に膾炙している割に黄泉国の史料は少なく、恐らく絵画として描かれたものはありません(装飾古墳の壁画を黄泉国といってよければ、それだけです)。絵画資料が発達してきたときに、同時に仏教も大きく展開し、とくに平安時代源信撰『往生要集』によって地獄と極楽のイメージが確立、絵巻や掛け軸などがそれを題材に他界を描いたためです。とくに、聖衆来迎寺蔵の国宝『六道絵』や、東京国立博物館奈良国立博物館蔵の国宝『地獄草紙』には、八大地獄の残酷な光景が克明に描写されています。奈良末期〜平安初期に成立した、日本現存最古の仏教説話集『日本霊異記』には、ちょうどヨハネの黙示録のような(あるいは『千と千尋の神隠し』のような)冥界訪問譚が収められていますが、そこでは閻魔王の登場する地獄を「黄泉国」として描いており、ヨモツヘグイについても記されています。黄泉国は仏教的他界が浸透する受け皿になったと思われますが、その具体的な姿については、失われてしまった部分が大きいようです。

現代のような火葬が始まったのはいつですか。

現代のような…といわれると、それは近代に入ってからです、という回答の仕方になってしまいます。近世の日本列島では土葬が主流で、ほぼ、火葬を行うのは浄土真宗門徒に限られていました。それが一般化したのは近代以降で、主に都市の衛生化、埋葬地の縮小/土地確保のため、遺体を腐敗させず、また埋葬に占める面積を縮減するための措置でした。なお、日本列島における火葬の起源は、史料的には唐へ留学し玄奘三蔵の新訳経典を持ち帰った道昭、そして持統天皇へ続きます。しかし、その流れは長く一般化はしませんでした。考古学的には、古墳時代の後期に、須恵器の生産に従事した渡来人たちが、その窯を利用して火葬を営んでいたらしいことが確認されています。

アニミズムの神々には、何らかの自然事象を象徴する神でもありながら、また別の何かを表象する神である、ということが多いように思います。古代人は、現代人とは違った概念で自然をみていたのでしょうか。

もちろん、ある程度近代科学を介して自然をみているわれわれと、古代的な論理で世界を把握している当時の人々とは、考え方も感じ方も異なっていたとみられます。例えば(これまでにもいろいろ言及はしてきましたが)、列島を含むアジア地域で最も多様な神格として現れるのは、やはり蛇神です。奈良県大神神社は、列島で最も古い神社のひとつといわれていますが、その祭神である大物主神は、『古事記』や『日本書紀』、『日本霊異記』などによると、蛇の姿をしており、男根の象徴でもあり、三輪山の神格化であり、また天から落ちた雷神でもあります。蛇は低湿地帯に棲息することから、多く水神の属性を持っています。そこから派生して、雨の神、雷の神とされてゆく。群馬県の内匠日向周地遺跡からは、「蛟が龍王に奉る」と墨書された木簡が出土しており、低位神格の蛇神:蛟へ、上位神格の蛇神:龍王に、人間の雨を祈る願いを中継させた木簡であると考えられています。蛇は再生象徴ですので、形状からも男根と重ね合わされますが、雷神の属性にはその形状も関わりがあります。雷をイナヅマと呼ぶのは、大地への落雷を性交渉の暗喩とし、豊かな稔りを生み出すものとみなされためです。いろいろな要素が雑然と集まっているようにみえますが、そこには古代的論理が一貫しているのです。

日本と中国の死生観の相違や共通点についてレポートを書きたいのですが、史料や遺跡などについて調査すれば分かるものでしょうか。日本を一括りにして、普遍化できるものでしょうか。

充分な質・量の史資料を収集し、きちんと分析できれば、ある程度のことは分かります。先行研究もいろいろありますので、最新の研究を参照してください。なお、日本にしても中国にしても、限られた史資料から普遍化するのは危険です。授業では、時間もないので省略していますが、黄泉国の単元でも「肥後型石室」などの話を出したように、横穴式石室ひとつをとっても、地域的多様性があります。装飾古墳の装飾壁画もしかり。時代・地域の多様性・特色に注意しながら、日本列島なら日本列島の、傾向(これも相違点と共通点を明確にして、総括すればよいことです)を導き出せばよい。中国ほど巨大になると、さすがに幾つかのグループに区分する必要があるでしょうが、例えば山東半島などに列島と類似の要素が多く見出せれば、伝播のルートが判明する可能性もあるわけです。

日常の生活空間とは隔絶したところに死者の世界が置かれた、ということは、縄文時代とは、墓の位置も含めてずいぶん考え方が変わってきたようです。

そうですね。古墳時代は、一般庶民の死者もしくは死後の世界に対する考え方は、実はよく分かっていません。日本列島は土壌が酸性のため、骨などが長い期間に融解されてしまい、庶民の墓を見出すことがほとんどできないからです。遺棄されていたか、それとも埋葬されたのかも定かではありませんが、中国と同じように薄葬であったことは確かでしょう。古墳時代には、死者の領域だけでなく、それと密接な神霊の降臨する空間も、日常と隔絶した自然の領域に設定されました。それは、逆説的ですが、村落と周囲の自然環境とが直結していた縄文時代に対し、自然/文化の領域が明確に区分され始めたためでしょう。そのことによって、山や海、地中や空などが、神聖な意味を付与されるようになったのです。例えば縄文時代までは、物理的に進入可能なら、人々はどんな山中にでも分け行って生活痕跡を残しています。しかし、次第に平地地域の開発が進んでいった弥生時代以降になると、人々は標高30メートル以上の山地には足を踏み入れなくなってゆく。それが、山中他界の起源のひとつでしょう。

国や地域を越えた神話の研究を、大学の4年間の学びで行うのは、範囲が広すぎて大変でしょうか?

古代神話の研究は面白く、また一般にも関心が高いところだと思います。しかし、これを扱うのはなかなかに厄介です。とくに比較神話ということになると、複数の言語に精通する必要が出てきます。例えば、あくまで評論レベルでギリシャ神話・日本神話の比較をするのならば、両方とも現代日本語訳で読めば事足ります。しかし学術研究として行うなら、まず現存最古のテクストまで遡り、それがどのような字句・表現で成り立っているかを、原語で確認しなければなりません。そのうえで「原典」が散佚してしまったものなら、もともとの原テクストではどのような状態だったのか、さらにその前の口承の段階ではいかなる形式であり、それはいつまで遡ることが可能なのかを、関連する史資料を博捜しながら突き詰めてゆく必要があります。それだけで、厖大な時間と労力を要する作業でしょう。現在われわれが読むことのできるギリシャ神話は、いわば芸術や娯楽として、演劇や詩文の形式で残った文芸の段階です。一方の日本神話は、支配層によって政治的目的で整理された、国家神話の段階です。異なる次元にある神話をどう比較すればよいか、理論的に考えなければなりませんし、なぜ比較するのか、比較によって何を導き出そうとするのか、正当かつ説得的な問題意識が必要です。よってもし神話を研究したいのであれば、卒論段階ではあまり対象を大きく拡大しないほうがよいでしょう。アジアなら、授業でお話ししているような、中国・朝鮮・日本との比較で考えるほうが妥当です。それだけでも、かなり厖大な情報を扱うことになりますので。