0-01-01から1年間の記事一覧

余談ですが、2年前送り火の提灯を川に流してしまいました。この場合、ちゃんとあの世に帰れるんでしょうか。

送り火のなかには、川に流す類のものもあります。日本では、長崎の精霊流しが有名ですが、同じような儀式は中国にもありますね。もともと、川は遡って行くと神々や仙人の世界へ、下って行くと死者の世界へ辿り着くという考え方が、アジアのさまざまな説話や…

日本では、確かに「死」がタブーのようになっていると感じます。世間、メディアなどでも、死を扱う際には、どこか一定の気遣いをしているようです。日本人だけが死に対してここまでタブー視しているのか、欧米などとは死に対する意識が異なるのでしょうか。

確かに、今回の東日本大震災においても、例えば欧米と日本の「死に対する扱い」の違いは、明確になったように思われます。例えば報道ですが、日本のテレビなどでは、津波が押し寄せる様子や被害情況を克明に放送していましたが、人々が流されてゆく様子やご…

境界について質問があります。柳田・水野・佐々木のどの話も時間は夜ですが、境界ということで、夕方が死者と出会う時間にされることはありますか。逢魔が時とはいいますが…。境界の時間と死者はどうなのでしょうか。

夕方の時分は「黄昏」と書いて「たそがれ」と読みますが、これは「誰そ彼」の意味、すなわち「あれは誰だ」ということです。薄暗くなり、ものの具体性、輪郭が曖昧になって、知っている人でも見分けがつきにくい。さまざまなものの境界が曖昧になるというこ…

『遠野物語』99話では、妻が姿を消す場所が「山」となっています。授業では海を死者の世界、陸を生者の世界とするお話がありましたが、ならば妻が陸地である「山」で姿を消すのは、何か意味があるのでしょうか。

山は、古来から死者の帰る空間とされた地域です。日本列島は地域によって相互にずいぶん異なる、変化のある地形をしていますが、概ね神や死者の住む他界というものは、人々の暮らす日常的空間の外側、通常はその奥地まで足を踏み入れることのない場所に設定…

陸と海の境目が境界になるというので、「橋の上で出会ったものは人間でない」といった、昔話のルール的なものを想い出しました。これも、橋の上が他界との境界であるということでしょうか。でも、橋の上って、どことどこの境目になるのでしょうか。

やはり、橋も代表的な境界のひとつです。まず橋は、川や湖沼などで遮られたあちら側/こちら側を繋ぐもので、文字どおりの境界を意味します。仏教ではこちら側を此岸、あちら側を彼岸と表現しますが、それはそれぞれ俗世、浄土の暗示ともなっています。7世…

境界の話が興味あるものだった。プリントにはアジアの伝統的他界観とありましたが、なぜそのような見方はアジアに限定されるのでしょう。

少し誤解があるかもしれません。「アジアの伝統的…」と述べたのは、アジア特有という意味ではなく、アジアにおける一般的な境界観に矛盾しないということです。『遠野物語』99話は、アジア各地の説話や伝承に共通する要素を多く持っている、といえます。

〈物語り〉の負の面の復原は可能なのでしょうか。

例えば、フロイトの見出したエディプス・コンプレックスなどは、物語りの負の面を表現した言説といえるでしょう。個人の成長過程において、異性の親から愛されたい/その親を独占したいという気持ちと、同性の親に感じる畏怖・嫉妬/同性の親を殺害したいと…

先祖供養などで親族が集まることがありますが、そのような場は〈物語り〉のための大切な場所と理解してよいのでしょうか。

法会・法要などの場は、古代から物語を生産する場所として重要でした。日本最古の仏教説話集である『日本霊異記』には、そうした場でなされたらしい、故人顕彰の要素を含む経典の例証話が多く収録されています。現在でも、法事のあとの会食の場で、故人をめ…

『遠野物語』99話を読んで、儒教や東アジア化した大乗仏教のなかで、先祖を語る/供養する、あるいは死者と和解するということが、どう展開されていたのか気になった。とくに、そうした東アジアの諸宗教のなかで、災害のこと、災害における死者の問題は、いったいどのように表象されていたのだろうか。

東アジアにおいては、災害による死者を含む「非業の死者」をいかに扱うかが、長年にわたる課題のひとつでした。そもそも儒教の祖先祭祀においては、非業の死者は自族の宗廟においては祀らない決まりでしたが、そのことによって一定の祟りなす霊を生み出して…

少し話題がそれますが、「心理」とは「死」とは何でしょうか。

どうでしょうねえ。ぼくは構築主義者ですので、言葉に本質的な意味はなく、その都度の情況に応じて社会的に構築されるものだと考えています。「心理」は学術用語(翻訳語)ですので、やはり心理学の定義に従うべきでしょう。「死」とは、日常レベル、自然科…

今回の『遠野物語』を検証・解説するにあたって、様々な書物にあたっていらっしゃいましたが、先生は、予め書きたい内容を想定し、それから関わりのある書物を読むのですか? 先に幾らかの書物を読んで、それから書く内容をまとめるのですか?

両方ですねえ。20年余りも研究を続けていますと、自分のなかに様々な蓄積もありますので、テーマに沿ってある程度の仮説は立てられますし、どんな本を読めばいいかも分かります。しかし、改めて調査を進め、史料や研究文献を読んでいるうちに、その仮説が覆…

すこし話題がそれますが、「心理」とは「死」とは何でしょうか。

日本では、確かに「死」がタブーのようになっていると感じます。世間、メディアなどでも、死を扱う際には、どこか一定の気遣いをしているようです。日本人だけが死に対してここまでタブー視しているのか、欧米などとは死に対する意識が異なるのでしょうか。

境界について質問があります。柳田・水野・佐々木のどの話も時間は夜ですが、境界ということで、夕方が死者と出会う時間にされることはありますか。逢魔が時とはいいますが…。境界の時間と死者はどうなのでしょうか。

『遠野物語』99話では、妻が姿を消す場所が「山」となっています。授業では海を死者の世界、陸を生者の世界とするお話がありましたが、ならば妻が陸地である「山」で姿を消すのは、何か意味があるのでしょうか。

陸と海の境目が境界になるというので、「橋の上で出会ったものは人間でない」といった、昔話のルール的なものを想い出しました。これも、橋の上が他界との境界であるということでしょうか。でも、橋の上って、どことどこの境目になるのでしょうか。

境界の話が興味あるものだった。プリントにはアジアの伝統的他界観とありましたが、なぜそのような見方はアジアに限定されるのでしょう。

〈物語り〉の負の面の復原は可能なのでしょうか。

先祖供養などで親族が集まることがありますが、そのような場は〈物語り〉のための大切な場所と理解してよいのでしょうか。

『遠野物語』99話を読んで、儒教や東アジア化した大乗仏教のなかで、先祖を語る/供養する、あるいは死者と和解するということが、どう展開されていたのか気になった。とくに、そうした東アジアの諸宗教のなかで、災害のこと、災害における死者の問題は、いったいどのように表象されていたのだろうか。