2007-10-26から1日間の記事一覧

考課の制度についてですが、そもそも勤務評定はなぜ六年に一度だったのでしょう。六という数に何か意味があったのですか。

〈六〉という年数が、律令国家の基本サイクルのひとつであることは確かです。戸籍も六年に一度作られますし、班田も六年ごとに行われる規定でした。それでは六に特別な意味付けがあったのかというと、これはよく分かりません。ただ、天・地・東・西・南・北…

日本にも闕字の習慣はありますか。

古代日本の文書様式は唐令を継承しているので、闕字もちゃんと公式令(38闕字条)に規定されていました。それによると闕字の対象は、大社(ここでは伊勢神宮か)・陵号(歴代天皇の陵墓)・乗輿・車駕(ともに天皇の乗り物)・詔書・勅旨・明詔(詔旨の美称…

避諱の制度ですが、名乗るのを忌む、というのはいつからある習慣なのでしょう。/そもそもなぜ名乗るのを忌むのでしょう。逆に使用することで尊崇の念が増す、という考え方はなかったのでしょうか。

起源はいつなのか、というのは勉強不足で分かりませんが、諱とは正確には本名のことで、中国では目下の者が目上の者の本名を呼ぶのは礼に悖る行為とされていました。そもそも名とは個を特定するものなので、呪術などに用いられれば大変危険であり、無闇に明…

中国の避諱は、違う漢字であれば使用を許可されたと思います。日本では、なぜ「不比等」に対し「史」まで禁止されたのですか。

これは、中国では漢字という文字とその意味とが一定に結びついていますが、日本では漢字とやまと言葉との間に明らかな断絶があるためでしょう。つまり、日本では「ふひと」というやまと言葉のレベルで避諱が成り立っているわけですが、それは訓を用いて「史…

避諱を決定する権限は天皇のみにあるのでしょうか。天皇の判断なのか、対象となる人物の頼みによるものなのでしょうか。/臣籍降下は誰が決めるのですか。

避諱にしても臣籍降下にしても政策ですから、天皇を含めた朝廷の総意として決定されたことに違いはありません。その細かい策定には関係機関の官僚たちも動いていたはずです。最終的な決定に誰の意向がより強く働いたかは、時代によって違うと思いますが(天…

天武以降の直系継承に不比等の強い意向が働いたとのことですが、天皇の意思は尊重されなかったのでしょうか。

そんなことはなかったと思います。皇位の継承系統を確立して政治的混乱を防ぎたいと考えていたのは、まずは壬申の乱を引き起こさざるをえなかった天武であり、その意向を受け継いだ持統であり、また支配者層の総意でもあったでしょう。継承者を天武・持統の…

藤原氏は天皇にとって代わりたいと思ったことはなかったのでしょうか。なかったとすれば、それはなぜでしょう。

藤原氏には、天皇家にとって代わるという発想はなかったようですね。なぜかといわれると困りますが、律令国家の日本的特徴として〈天皇制〉なるものを選択し、自らそれを順守し利益を得る方法を良としたのでしょう。天皇制とは、究極的にいうと、(まっとう…