2007-11-16から1日間の記事一覧

前回、「淳仁」のし号は明治に奉られたものとおっしゃっていましたが、明経博士のいないときにはどのように選定したのでしょう

維摩会は当時興福寺だけで行われていたのですか。そこにはどのような階層の人が集まったのでしょう。

光明子は非常に高い教育を受けたとのことですが、具体的にはどのようなことを学んだのでしょうか。また、どのように行われたのでしょう。家庭教師など付いたのでしょうか。

恐らくは、早くから首皇子へ嫁がせるために育てられているので、キサキとして振る舞うに相応しい教育は施されていたでしょう。『楽毅論』と『杜家』のみがそれを知るよすがですが、内容的なことまで意味を持つとするのは穿ちすぎかも知れません。ただし前者…

『杜家立成雑書要略』は、その後、貴族社会に広まったりしたのでしょうか。

これは書風を練習するための書物であり、また書簡の用例集でもあるわけですが、後者としては中国の地方の下級官人層、小地主層の生活世界を反映したものなので、光明皇后が書写し練習するのはやや不自然な気もします。『万葉集』は、和歌を手紙がわりに用い…

「店」という文字には「占」が含まれていますが、甲骨や金文にはどう出てくるのでしょう。

仲麻呂が、あらゆるメディアを自家正当化のプロパガンダに用いていたことはわかったが、それとは逆に、他家をおとしめるために使用した事例もあったのだろうか。

恐らくは仲麻呂が起草に関わっている詔のなかで、橘奈良麻呂一派がおとしめられたり、兄豊成が批判されたりということはありました。奈良麻呂の場合には、そのクーデターの抑止を代々の先帝や神仏のお陰としていますから、逆にそうした宗教的権威をもって、…

光明子には、入内してからも藤原氏としての自覚があったとおっしゃっていましたが、後の時代をみても、后妃となった女性たちが実家のために尽くすのは当然なのではないでしょうか。/光明子が入内してからも「藤三娘」と名乗っていたのは、藤原氏が強大だから許されたのでしょうか。現在の感覚からすると、ありえないことのように思えるのですが。

まったく対照的な感想の付加された質問が来ましたね。古代の大王家・天皇家に入り、妃になるということは、現代のそれとはやや感覚が異なるようです。中国王朝の后妃も出身氏族の名前で呼ばれていますし、日本でもそうした〈家との繋がり〉が強かった(その…