2008-06-09から1日間の記事一覧

桃はなぜ神聖な果実とされたのでしょう。

単純ですが難しい質問です。ありきたりの推論ですが、ひとつには性的象徴(女性の臀部などとの形状類似)からの連想が考えられます。性は生命の根源として、前近代社会・民族社会においては信仰の核をなします。桃に破邪の機能が期待され、不老長寿の仙薬と…

日本の卜占は誰がどのように行っていたのですか。殷王朝では王自身が実践していたと思うのですが...。

殷王朝では、最高の卜官は確かに王ですが、卜府ともいうべき専門の機関が存在し、亀甲や牛骨の調達・管理・整形、卜占の実践・記録等を一括して行っていました。そこに所属する貞人=卜官こそが、歴史を掌る史官の前身でもあります。周代以降は、卜占は専門…

古代の人々は、なぜ呪いやまじないの類を信じたのでしょうか。

宗教や呪術は、前近代において科学と同じ役割を果たしていました。現在私たちは、世界や宇宙を認識する知の体系として自然科学に依拠していますが、世界がどうなっているのか、宇宙がどのように成り立ち存在しているのかを教えてくれるのは、前近代において…

日本的中華思想によって生み出された〈異民族〉は、蝦夷と隼人だけですか。熊襲は違うのでしょうか。 / 差別化されているはずの隼人に、なぜ四神を連想させる名前が付いているのでしょう。

熊襲や南島の人々も服属民として扱われますが、蝦夷や隼人のような特別な位置づけは与えられていません。実質的に夷狄を持たない日本では、この2グループが象徴的に扱われたのでしょう。例えば、出雲国造がヤマト王権への服属を誓う「出雲国造神賀詞奏上」…

中大兄の築いた漏刻台の時間の概念は、観勒の暦法に基づいていたのでしょうか。

恐らく元嘉暦に依拠したものであったと考えられます。石神遺跡からは、持統天皇3年(689)の具注暦木簡が発見されていますが、これは元嘉暦に基づいています。同6年(692)からは新しい儀鳳暦との併用が始まり、文武朝には切り換えられるので、斉明朝は元…

漏刻の時間はいつまで基準にされたのでしょうか。中世や近世になってもまだ存在していたのですか。

少なくとも平安時代までは、陰陽寮のもとで管理されていたようです。養老令によれば、同寮には漏剋博士2人と守辰丁20人が置かれ、漏刻を操作し、決められた時間に鐘鼓を鳴らして周知を行っていました。地方では、日時計や時香盤(香の燃え尽きる長さで時間…

漏刻の成立以前には、日本では何によって時間を決めていたのですか。

最も古い方法は太陽や月によって暦や時刻を分節する方法ですね。日時計もそうです。これら天体からは、方位も知ることができます。日本古代には、皇室の祖先神となるアマテラスの他に、尾張氏という海洋系の氏族によって奉仕されていた天照御魂神など、多様…

須弥山石は解体可能とのことですが、どのような仕組みなのですか。 / 止水栓とは何でしょう。

別にポータブルということではなく、いろいろな場所に設営できるということで、組み立て式なのです。以前に配布したレジュメにも、『書紀』における須弥山石の史料を網羅しておきましたが、幾つか場所を移して設営されています。飛鳥寺の川原は貴族の子弟が…

斉明朝において、須弥山石に象徴されるような仏教の導入が図られたのはなぜか?

古代国家に仏教が導入されたのは、仏教があらゆる知識・技術の最新の水準を示す複合文化であったからです。その思想を理解するためには高度な漢文の知識、哲学的思考が必要でしたし、経典を書写する施設・設備が不可欠でした。読経を核とする仏教儀礼を行う…

後岡本宮において、天皇の居所が公/私に分かれたことで、政治のありようにはどのような変化が生じたのでしょう。

それまでの大王の機能には、公/私という区別が存在していなかった可能性があります。大王宮は大王の居所であって、家産機構の中枢でもあった。極めて私的な空間で、その場に出入りして奉仕する存在は、大王家の配下以外にありえなかったでしょう。それに対…