2008-06-16から1日間の記事一覧

史料に挙がっている『延喜式』の章題にある、「四時祭」「祈年祭祝詞」「大忌祭」「神名帳」「大和」がよく分かりません。山口神社の表の見方もよく分かりません。

「四時祭」は春夏秋冬それぞれに行う年中行事としての祭祀の総称。「祈年祭」は、毎年2月に行われる最重要の律令祭祀で、天皇が公認の神社へ幣帛を頒布する一種の農耕予祝祭儀。「祝詞」はその祝詞。「大忌祭」は、毎年4・7月、朝廷が大和国の広瀬社・山…

格と式の違いがよく分かりません。

講義でも触れましたし、日本史・世界史とも一応は高校で習っているはずですが(世界史では中国史に出て来ます)、もう一度説明しておきましょう。格は律令の補足・修正法で、時代情況に合わせ、令の規定の足りないところを補ったり、令意を変更したりする法…

地名や職掌と人名が一致しているのは、何か関係があるのでしょうか。

氏族が本宗から分岐してゆくときには、移り住んだ場所や新たに担うことになった職名をウジ名に冠するのが普通で、これを複姓といいます。例えば蘇我倉山田石川麻呂んの名前には、職名を表すクラ、本拠の地名を表すイシカワが盛り込まれています。

有間皇子は蘇我赤兄に簡単に唆されていますが、謀反の起こし方が軽率ではないでしょうか。

実際はもっと複雑な事情があったのでしょう。また蘇我氏については、本宗が中大兄・中臣鎌足によって滅ぼされているわけですし、味方した石川麻呂も無実の罪で自殺させられているわけですから、当時の宮廷社会にあって、必ずしも「親中大兄」一色でみられて…

最終的に、なぜ斉明の子供たちが手がけた『日本書紀』に、あれほど色濃い批判が書かれているのでしょうか。

完全に、編纂時の天武皇統に有利な記述しか書かれてないわけではない、その点に『書紀』の史書としての客観性があるのでしょうね。中国王朝の正史を編纂してきた史官たちには、代々「王権より以前に天に奉仕している」との意識が強く、所属する国家や帰属す…

天皇の開発に対する反発はどのような形で天皇に伝わったのでしょうか。 / 斉明天皇が中国の様式を取り入れて王権を強化したかったのは分かりますが、こんなに批判を受けたらさすがに諦めるのではないかと思うのですが。

飛鳥という空間では、王と民の間はそれほど隔絶していなかったと考えられます。もちろん、民が直接王に苦情を訴えることはなかったでしょうが、その不満や怨嗟が、豪族たちを介して王に伝わることは充分にあったでしょう。古代の史料には、時折「時の人の云…

高校の教科書で、「藤原京は石上山の木材を大和三山に囲まれた所に運搬し、造営された」と習ったのですが、本当ですか?

恐らく、「石上山」ではなく「田上山」の記憶違いでしょう。後日講義でもお話ししますが、田上山は滋賀県の南部にある山で、古代から連綿と林業が盛んに行われた場所です。藤原京造営時にここから木材が伐り出されたことは、『万葉集』の「藤原宮の役民の作…

石の山丘を作るために使われた天理砂岩は、当時としては高級な石材だったのでしょうか。

古墳時代からよく使用されている飛鳥の石材として、石上山の石と二上山の石が挙げられます。高級というより、まずは加工しやすかったこと、そして宗教的な意味を持っていたことが指摘できます。二上山は飛鳥からみて太陽が沈む真西の方角にあり、冥界のある…

レポートテーマの発表もしましたので、とりあえず、まだ単元の終わらない飛鳥・藤原の、現時点での参考文献を掲載しておきます。

相原嘉之 2004 「酒船石遺跡の発掘調査成果とその意義」『日本考古学』18今泉隆雄 1986 「蝦夷の朝貢と饗給」高橋富雄編『東北古代史の研究』吉川弘文館 1993(1992)「飛鳥の須弥山と斎槻」同『古代宮都の研究』吉川弘文館小澤毅 2003(1988)「伝承板蓋宮…