2008-07-07から1日間の記事一覧

歌が呪術的な意味を喪失するのはいつのことでしょう。

中国の『詩経』より踏襲した「歌は鬼神を揺り動かすもの」という意識は、奈良時代の藤原浜成『歌経標式』、平安時代の紀貫之『古今和歌集』序にまで続いてゆきます。本来、宗教儀式と密接に結びついていた芸能が娯楽・芸術として確立してゆくのは中世後期、…

高所で行う国見について、天皇は、自らの足ではなく乗り物に乗って登ったんですよね?

そうですね。明確な記述はないですが、おそらく輿のようなものを使って、担がれて登ったのでしょう。

国見とは支配地域の確認であるとのことですが、この当時天皇が支配していた地域とはどれくらいの広さだったのでしょうか。

国見自体は、その視界の及ぶ範囲にしか効果を及ぼしませんので、天皇は行幸して移動し、重要地域の高所に登っては国見をしたようです。支配地域の方は、それとは関わりなく広範囲に及んでいて、すでに5世紀の雄略天皇の頃には東国から九州までを支配下に入…

国見についてですが、天皇が「みる」ことによって権力が浸透する、と認識していたのは誰なのでしょう。

主に支配層ですが、みること/みられることに呪術的な意味を認めていたのは広範な階層だったようです。古代中国では、戦争の際に媚女というシャーマンが相手をみつめて呪う、呪術合戦が行われます。目を象徴的に表した青銅器の類も見つかっています。いまの…

木本儀礼の際に、許可が得られないということはあったのですか。それとも、形式的に行っていただけですか。

許可の得られないことはほとんどなかったと思われますが、たとえば以前に授業で扱った『日本書紀』推古天皇二十六年是年条など、樹木が伐採に抵抗するという話は残っています。この伝説には木本儀礼を行った形跡もみえますので、祭儀の執行中に何らかの異常…

式年遷宮のために、杣山の樹木がなくなってしまうということはなかったのでしょうか。

伊勢の杣山には時代的変遷があります。当初は神宮周辺で調達していたようですが、次第に広範囲に及び、江戸期には木曽山へ固定されたようです。神宮の建築物を賄うには充分だったようですが、恐らくは周辺の農村、政治勢力との山をめぐる競争があり、良材を…

遷都は疫病が流行したり、占いで悪い結果が出るなどして行われたのだと思いますが、式年遷宮もそれが発展して行われるようになったのでしょうか。

式年遷宮は造営の場所自体をまったく変えてしまうわけではないので、凶事を契機に行われたのではありません。詳しくは分かりませんが、20年は木材の耐用年数を表しており、老朽化による新築を意味するのないかという説があります。ちなみに、式年の「式」と…

式年遷宮は、最も近くていつ行われるのですか。

いますでに進行中です。最初の山口祭から最後の御神楽奉納まで8年を要しますが、今回の第62回遷宮は2005年から始まり、2013年に終了することになっています。すでに御木曳までが終了し、今年は地鎮めが行われる予定です。詳しくは下記のURLを参照してくださ…

藤原宮の場合、建設にはどれくらいの期間、労働力を費やしたのでしょう。労働力に充てられたのはどのような人々だったのでしょうか。

講義でも述べましたが、労役としての仕丁と、日雇いの雇夫といった単純労働力が主力であったと考えられています。前者は8世紀の養老令制で2000人強が上京し(廝丁も含めれば2倍)、各司庁へ配分されていました。唐令にはない制度なので、藤原京で本格的に…

エビノコ郭の呼称は何に由来するのですか。

この区画の発見された地名、小字名に基づいていますが、岸俊男氏は、「蘇我蝦夷の子」を意味するとも述べています(『日本の古代宮都』岩波書店、1993年、54頁)。小澤毅氏などは、適正な呼称とはいえないと批判し、「東南郭」の名称を用いるべきであると述…