2008-12-10から1日間の記事一覧

対自然の問題に関しては、ある意味人格を持った弱い存在と捉え、その痛みに対峙することも必要だなと思った。ナウシカから学んだことは、弱さを貫くこと、関わりのなかの敗北を引き受けることのなかで生じる、様々な自分の死を死に続けたら、一体人間はどのようになっていくのだろうということである。

凄く難しいことを書いていますね。人類文化に普遍的な〈死と再生〉の思想に準えていうなら、死に続けることは新しく生まれ続けることでもあるということになります。勝利/敗北、生/死などはいずれも相対的なものですから、一方へ追い込まれたときは必ずも…

「非決定」という考え方を初めて聞きました。中立というと立派かも知れませんが、ただ決定を避けることは弱さだと思います。この考えでは何かを決めること以上の決断力や意志が必要になるのではないでしょうか。

非決定については、決定をすることの方を弱さと考えるのです。実は、人間は安定性を志向する生き物ですので、どっちつかずの情況に自分を置くということは、心身に大きなストレスをかけることになります。どこかに身を置いて安定したいという欲求が、友人関…

ジブリ以外の作品で、先生が思う自然や歴史観が詰まった邦画がありましたらぜひ教えてください。

どうでしょう。洋画にしても邦画にしても、ちゃんと論じることのできる作品はあまりない気がします。以前、茨城大学で「日本と世界の歴史」というタイトルの集中講義をしたとき、『もののけ姫』と対の教材になるような洋画を探したのですが、ピンとくるもの…

『もののけ姫』で、サンはあくまで人間であり、人間の言葉を話す。人間も自然のなかの存在であるという主張なのかも知れないが、この映画だと意志の疎通ができる自然であり、現実とは異なるから、ここに何か問題がある気がする。

そうですね。『ナウシカ』の王蟲はまったく人語を話しませんからね。ただし、シシ神や木霊は人語を解しているのかどうかも分かりませんし、サンもその声を聞き取ることはできません。自然の核になる部分はやはり人間には理解しえないものだ、その思考の枠組…

『もののけ姫』で、猪神の乙事主が、「自分たちの種族は小さくバカになってしまった」といっていた。つまり猪神がただの猪になってしまったということか。犬神は狼に、猩々は猿になってしまったのだろうか。人間ももとは神であったのか気になった。

ああ、どうなんでしょう。そういう世界観で読み解くことも可能なのかもしれませんね。『播磨国風土記』などでは、国譲りで有名なオホクニヌシなどは巨人として語られていますからね。ただ、シシ神の夜の姿であるダイダラボッチは、そういう巨人伝承の形象化…

室町時代に自然への畏怖がなくなっていった、自然が人間にとって支配可能なものになっていったということについて詳しく知りたい。 / 和辻哲郎の『風土』では、その地域の自然との関わり方を述べている。そのなかで日本は、自然と共生しながら生きてきたとある。それがなぜ室町時代に「シシ神」を殺すことになってしまったのか疑問に思った。

以前多少説明したような気がします。少なくとも、「日本が自然と共生してきた」といえるかどうかが甚だしく疑問である点は、講義の1回目から口を酸っぱくして語ってきました。もしそれを聞いていないのだとすれば少々萎えますが、講義を聞いたうえでさらな…

神々の世界にもヒエラルキーを持ち込んでしまう宮崎駿ってすごいです。アニミズムの神話世界(ギリシャ神話など)ではヒエラルキーってつきものなんですか?

アニミズムの最も古い形式は、もちろんヒエラルヒーなど持たないと思います。人間生活の変化に応じて神の世界も変容してゆくわけで、例えば農耕社会に移行すると、農耕に直接関わりのある太陽神や雷神(大地を母とみるとき雷は父であり、その落雷=性交によ…

『もののけ姫』における人語を話す神/話さない神は、動物/植物という分け方のようにもみえます。生物とそれを動かす原理、もしくはそれに宿る神という対立のようにも感じます。植物性だけではない岩などにも、神が宿るという考え方はどうなのでしょうか?

レジュメにも書きましたが、もちろん植物性を持つか否かで類別することもできます。木霊はともかく、鹿をモチーフにしたシシ神になぜ植物性?と考える人もいるでしょうが、鹿の角や足はよく樹木の枝や幹に喩えられたりするんですね。シシ神の角は、通常の鹿…

古代の人は、「木霊」のように、何にでも神や霊が宿ると考えていたのですか?

それがアニミズムという原初的な宗教の形態です。近代的学問に支えられた世界観を持つ私たちは、身の回りの命について考える場合、まず生物/無生物という類別を持ち出しますが、アニミズムにおいてはそうした差違はありません。森羅万象のあらゆるものに神…