2008-06-01から1ヶ月間の記事一覧

古代人にとっては、自然環境も、国を発展させてゆくための手段のひとつに過ぎなかったのでしょうか。

いまお話ししている7世紀の時期に、自然環境を客体として、対象としてみるまなざしが展開してゆくものと考えられます。それ以前は自然と人間は一体であり、人々は自然の神を恐れ敬い、それに育まれる形で生活を営んでいた。それが開発の対象、発展のための…

温泉に入るという習慣は、いつ頃から始まったのでしょう。

『日本書紀』などにみられる事例を勘案すると、6世紀後半には確実に始まっているといえそうです。しかし、動物が温泉に入る事例もあるわけですから、周辺の人間たちが太古から利用していた可能性はあります。

蝦夷はアイヌではないと聞いたことがありますが、人種として当時のヤマトの人々と同種だったのでしょうか。もしそうなら、何を基準に夷狄化を行ったのですか。

アイヌと沖縄の人々のDNAが縄文人のそれと一致する、という説がありますが、縄文時代から弥生時代への変化は平和的融合として起こったことが分かっているので、7世紀の蝦夷とヤマト王権の人々が人種的に異なるものだったとはいいきれません。しかし、かなり…

大王の側近豪族である阿倍氏が、なぜ東国に拠点を置いているのでしょう。

阿倍氏が東国に拠点を置いているのではなく、阿倍氏の統轄する丈部が東国に分布しているのです。

古代の貴族たちは、漢詩をどのように勉強したのですか。

まずは漢語の勉強です。その際、漢籍から様々な文章を抜粋し分類した「類書」とよばれる書物が重視されました。代表的なものとしては、『初学記』『芸文類聚』『北堂書鈔』などが有名です。そうした漢籍から、日本人は、自分のみている草花や動物、自然現象…

なぜ近江大津宮が文芸の発祥地として選ばれたのでしょうか。

もちろん景勝の地であったことも大きいですが、この宮の頃、百済の滅亡によって、倭へ大量の亡命百済人がやってきたことも原因のひとつでしょう。とくに百済王族を迎えたことは、百済の宮廷文化の摂取に繋がり、進んだ渡来系の文化が繁栄しました。文芸の急…

「大王は神にしませば…」の歌は、私が受験のときに覚えたものと違っていました。全部で何首あるのでしょう。

次回以降、メインで扱うときに、一覧にしておみせします。直接的・間接的に、柿本人麻呂という宮廷歌人が関わっているのが特徴です。

数々の宮が登場していますが、遷都された後の建物などはどう処理されたのでしょうか。再利用はあったのですか。

されていますね。近年、年輪年代測定法の進化が著しく、遺跡出土の木材がいつ頃伐採されたものであるかがよく分かるようになってきました。昨年10月にも、平城宮跡で検出された木材の1つが694年の伐採であったと確認され、藤原宮もしくはその周辺の建築物の…

映画などでみる陰陽師は、妖怪退治が仕事であったように思います。今日の講義では風水が出てきましたが、物の怪への対処に根拠はあるのでしょうか。

もちろん陰陽師が物の怪の調伏に活躍する史料も存在します。しかし大部分が説話や伝説の類で、実録的な史料においては、卜占・天文観測・造暦などが主な仕事でした。物の怪退治に活躍するのは大部分が密教僧で、陰陽師のそれは安倍晴明の神話化を通じて喧伝…

信濃は都から離れているのに、古来から重視されている土地のように思います。何か特別な理由があるのでしょうか。

信濃の東隣である上野には、早くから大きな政治的力を蓄えた豪族集団が展開していました。前方後円墳を営みヤマトに服属していたとはいえ、その政治的・軍事的力は無視できなかったと思います。さらにその東方、北方には、エミシと呼ばれる未知の勢力が広が…

四神相応は、いつ頃日本に導入されたのでしょう。

最も早い例は、福岡県の竹原古墳(6世紀後半)の石室内に描かれた玄武・青龍・朱雀です。ただし、この古墳では四神思想が明確に理解できていなかったようで、玄武のデザインははっきりしませんし、青龍は馬のようにもみえます。これが7世紀末の奈良県キト…

四神の生き物はどこから来ているのですか?

残念ながら四神の起源については難解で、ぼくも定見は持っていません。文献的には、すでに戦国時代末期に成立した『周礼』春官宗伯/司常に、「交龍」「熊虎」「鳥隼」「亀蛇」が旗の文様としてみられます。方角に対応した四神は、道教の『淮南子』天文篇、…

四神相応についてですが、玄武が山、青龍が川というのは分かりますが、白虎が道、朱雀が池というのは少々厳しい気がします。なぜこういう割り当てになったのでしょう。

四神の形態によって分けるというより、都というものに必要な機能を割り振っているのでしょうね。山と川はともに自然の恵みを表し、とくに前者は防御、後者は水路の機能を発揮します。道は陸路交通、池は感慨農耕を象徴するものでしょう。ともに衣食住という…

複都制にはどのようなメリットがあるのでしょう。機関が別々の場所にあると不便であると思うのですが。

難波宮を外交・経済の拠点とすると、外交使節が来朝する難波津に近いこと、陸路と水路が交錯する交通の要衝であることが利点です。しかし、交通に開けているということは、そのぶん外敵にさらされやすいということも意味しています。倭が唐・新羅連合軍に敗…

複都制についてですが、アケメネス朝ペルシアにおいて、グレイオスI世はスサやペルセポリスに都を置き、分業していました。また、季節に応じて王の身を移していたといいます。となると、天武天皇も夏の猛暑から逃れるなどの理由で、複都制を敷いたとはいえないでしょうか?

天武天皇の時代は、古墳時代に続いた寒冷期がようやく終わろうとしている時期で、避暑という概念はそぐわないかも知れません。ただし、持統天皇は山水の清らかな吉野の地に鳴滝宮を築き、たびたび行幸しています。吉野にはリゾートとしての意味合いもあった…

歴史家は、史料に基づいてなるべく堅実に「正しい」と思われることを導き出してゆくと聞いていたのですが、諸先生の講義を聞いていると、史料から想像力を働かせて自分なりの説を導いているなと思いました。レポートなどの考察では、このように証拠のない想像に頼ったものを記述してもよいのでしょうか?

なかなか凄い質問が来ましたね。まずいえることは、先生方の発言には証拠がないわけではないと思います。学問としての歴史学と教科としての歴史、一般教養としての歴史の間には、その考え方にも方法にも大きな隔たりがありますので、1年生には突飛に聞こえ…

大化の薄葬令で、国家的に墓地を定めるとありましたが、国営の墓地を作ってそこにしか埋葬させないということでしょうか。

これは逆に、埋葬してはいけない場所を明確に規定するという発想ですね。例えば公道のうえ、周辺など、墓地造営が景観を悪化させることのないよう配慮しているのです。古代における景観は権力のありようと密接に結びついていて、単に美的感覚の問題ではあり…

首長霊の継承儀礼を行ったあと、古墳の被葬者は何も力を失ってしまうのでしょうか。

これについては複数の説があります。ひとつは中国の魂ぱく分離概念に基づくもので、魂は新首長に引き継がれ、はくが被葬者の肉体に留まります。この両者を宗教的エネルギーの源泉と考えるのがひとつ。ほかにも、

無量寿経や盂蘭盆経など、仏教のことについて解説した詳しい本はありますか。

そうですね。仏教経典に関する概説は巷に溢れているのですが、最近、「これはぜひ!」というものが見受けられないのが現状です。経典に関しては岩波文庫、中央公論社の「大乗仏典」シリーズなど各種翻訳も出ていますので、そちらに当たった方がいいかもしれ…

阿弥陀如来の四十八願のなかで、第十八願が最も重要だという話がありましたが、いわゆる十八番(オハコ)などの言葉と関係あるのでしょうか。

あるという説、ないという説の両方がありますが、直接的には9代目市川団十郎の演目に由来します。ちなみに、第十八番は「暫」であったようです。

古代においては、浄土教以外の仏教は、すべてそれ以降に受け入れられていったのでしょうか。

祖先供養に関わる浄土系の経典も早いのですが、ほぼ同時に護国三部経たる『金光明経』(後、新訳の『金光明最勝王経』が利用)『法華経』『仁王経』の依用が進み、大部を誇る『大般若経』への注目も高まりました。これらは経典の持つ哲学的な内容より、写経…

古墳の終焉とともに寺院が増加したとのことですが、その財源はどのように確保されたのでしょう。税金でしょうか。

仏教の普及と定着を図りたい国家は、推古天皇二年二月の三宝興隆詔以来、各氏族の氏寺創建を積極的に援助してきました。しかし、天武天皇九年には、二、三の国大寺以外は官による管理を終了し、食封も30年を限度に停止することにしたようです。推古朝から持…

寺院が祖先祭祀の機能を持ったことは分かりました。しかし寺院の中心は、舎利の埋納されている塔から金堂へと変わってゆくはずですが、それは祖先崇拝の考え方が弱まっていったことを意味するのでしょうか。

必ずしもそうとはいえません。仏塔が釈迦の古墳と考えられたにしても、そこにおける信仰対象は自身の氏族の祖先ではなく、その来世的幸福を保証してくれる仏教的神格です。仏教を取り入れた時点で、まず祖先祭祀から祖先供養への変質が起こっているのであり…

仏教と在来宗教との融合は、仏教を受容した国ならどこでもあることかと思いますが、日本でこんなに早い段階から進んでいるとは思いませんでした。神社と寺院が混ざったような施設は、いつごろからあるのでしょうか。 / 在来信仰と仏教との結びつきは、古い時代には必ずしも強くなかったように思います。民衆レベルではどのように捉えられていたのでしょう。

文献から確認できる神仏習合の最も早い例は、『日本霊異記』上巻七縁に描かれた三谷寺で、白村江の戦いの後に「神祇のために」建てられた伽藍と書かれています。また、『藤氏家伝』下巻「武智麻呂伝」では、霊亀元年(715)、藤原武智麻呂によって気比神宮に…

史実ではなかったという崇仏論争を、教科書が事実として書いているのはなぜですか。

教科書は、もはや定説として動かないであろう学説を分かりやすく記述するので、学界の水準からすると10〜20年遅れています。崇仏論争の件は、ぼくと数人の学者が見出した最新の学説なので、学界では反対意見は出ていないものの(近年、『書紀』に対する史料…

中臣鎌足の伝記の「カデン」とは、どんな漢字を書くのでしょう。

「家伝」です。詳しくは、歴史学研究入門の課題にあがっていた『歴史家の散歩道』を参照してください。

四天王について詳しく知りたいのですが。

四天王は、仏教に帰依した天部という神々で、須弥山にあって東西南北の四方を守護していました。東を守護する持国天、南を守護する増長天、西を守護する広目天、北を守護する多聞天からなります。最後の多聞天は、仏像の配置としては東北に置かれることから…

ドラマ『聖徳太子』で、物部守屋が弩で射殺されていました。当時から弩は存在したのでしょうか。

弩は弥生時代から存在したことが知られ、律令軍制にも規定されています。しかし、6〜7世紀の段階ではそれほど一般的な武器ではなかったでしょう。ドラマで弩を使っていた人物は新羅からの渡来人という設定で、その先進的技術と仏教の知識を通じて太子に奉…

当時の話し言葉は、現代の日本語と大差なかったのでしょうか。

発音からしても異なります。具体的な話し方には不明の点が多いのですが、奈良期以前の音韻はより朝鮮半島のそれに近く、現在の我々が発音できなくなってしまっている音も多く含まれていたと考えられています。

奈良時代以前、天皇には顔を隠す習慣がなかったのでしょうか。

天皇が御簾の向こう側に隠れるようになるのは、政治的実権を摂関に移譲し神聖不可侵の地位となってゆく平安以降とみられています。