2008-07-01から1ヶ月間の記事一覧

レポートに図や写真を入れても大丈夫でしょうか。

もちろん構いません。というより、いろいろ工夫して分かりやすさを追求するのはいいことでしょう。引用の場合は、出典をきちんと明記してくださいね。

臨終行儀の際、五色の糸を指に巻くのはなぜですか。五色であることに意味はあるのでしょうか。

青・黄・赤・白・黒の「五色」は、仏教の儀礼や言説のなかでよく用いられますが、起源としては中国の五行思想に基づくものと思われます。それぞれ木・火・土・金・水に対応します。五行は世界を構成する基本要素ですが、仏教では神聖なものの象徴です。五色…

忌日の「七」は、何を表しているのでしょう。キリスト教では完全さを意味しますが、仏教ではマイナス・イメージのような気がします。

仏教では「八」が満数で覚醒を表すので、「七」はその過程、一歩前の状態を示すものとしてよく使われます。しかしそこに基準や法則はなく、プラスの価値付けもマイナスの価値付けもされていません。忌日の七は、中陰を抜けた段階=八のプロセスを表すに過ぎ…

『六道絵』の閻魔王庁幅で、赤子を捨てた女性の足が纏足になっていました。清朝などでは、纏足は「女性の美しさ」の点で語られていますが、これが罰則のようなイメージで描写されているのはなぜなのでしょう。

纏足が流行した背景には、もちろん「美しさ」もありますが、それは表層に過ぎず、実際は女性を家庭へ束縛することにあったと思われます。また、美は性と不可分ですが、纏足の場合にも局部の筋肉の発達と関連づけて語られました。東アジア仏教は女性を穢れた…

『六道絵』には、復活した死者が赤ん坊になっている絵はみられましたが、子供の死者自体は描かれていなかったように思います。賽の河原などのイメージはいつ頃出来上がるのでしょう。

紹介しましたように、閻魔王庁幅には母を訴える赤子が描かれていますので、『六道絵』にも子供は登場します。しかし、無垢で悪業を犯していないというイメージからか、大人と一緒に責め苦に遭っている絵は出てきませんね(そういう意味では、人間の被害者で…

『六道絵』の閻魔王庁幅の細部にわたる描写は、経典などの書物だけからイメージされたものではないように思います。絵師たちは、何かもとになる絵図を参考にしていたのでしょうか。

その通りですね。唐末から宋代にかけて、十王裁判の様子を描いた「十王図」が制作されるようになり、それが日本へも将来されるのです。『六道絵』の閻魔王庁幅のモチーフ・構図は、明らかにそれを踏襲しています。

ご馳走や御礼目当てに、偽の冥界の死者が現れることはなかったのでしょうか。

面白いですね。さあどうでしょう。ぼくは勉強不足で分かりませんが、地獄の死者に化けた人間が悪さを働く、という話はどこかにありそうですね。今度よく調べてみます。

『捜神記』で、泰山で労役に服していた者が「土地神になりたい」といいますが、それはなぜでしょう。

話のなかで死者である胡母班の父が明確に答えていますが、自分の故郷の土地神になれば一族の者が酒食を欠かさず供え、礼拝してくれるので、満ち足りた生活を送ることができるのです。これも、中国の現実の官僚世界を反映した表現かもしれません。

授業では「地獄と極楽」と表現されていましたが、現在のように「天国と地獄」というのはキリスト教の影響でしょうか。

一般的にはそういわれています。つまり、近代以降のいい方ですね。かなり新しいものでしょう。神祇信仰には天国はありませんし、仏教の「天人道」は、キリスト教の天国に相当する極楽とは異なります。そこに暮らす天人は確かに人間より高位であり、楽の多い…

なぜ建築物の礎石として花崗岩が使われたのでしょう。また、それはどこから持ち込まれたのですか。

奈良県にも花崗岩は分布しており、南方の大峰山系、飛鳥の付近では談山神社のある多武峯にも産出します。花崗岩は緻密で硬度が高いため、石材としては重宝され、後世にも寺院の基壇や城の石垣として使用されています。いわゆる御影石も花崗岩です。

瓦を焼く技術の発展、瓦を載せる建物を建てられるようになったことは、やはり大きな進歩だったのでしょうか。

このような展開を通して、徐々に古代人の自然認識が変質していったとすれば、やはり大きな変化でしょう。瓦の大量生産、それを載せることのできる木材の伐採、それらが藤原宮造営で可能になったとすれば、以降の時代においても前代ほどの心理的抵抗なしに開…

須恵器の材料となる粘土は、窯の周辺から得ていたのでしょうか。

基本的には、窯周辺の粘土を用いたと考えられています。よって、各地域の遺跡から出土する須恵器がどこの窯で焼かれたかなど、形状や叩文など視覚的に確認できる特徴のほか、蛍光X線分析による胎土の調査が決め手となっているのです。環境負荷の観点から考…

古代から存在する「鬼」について興味があります。今では妖怪のようなものを思い浮かべますが、古代でもそうだったのでしょうか。中国では「魂」といった意味であったと聞きましたが。

中国で成立した「鬼」という文字自体、朽ち果てた頭蓋骨と肢体の残骨を象形したものです。中国古代ではこの頭蓋骨に霊を呼び寄せて祭祀を行い、それを立てておく台の木主が、やがて位牌に姿を変えてきました。ゆえに鬼とは屍体、転じて死霊を総称する言葉と…

昔はよく「日照りで作物ができない」ことがあったようですが、現在では、作物に影響するほど雨が降らないことはあまりないように思います。昔と今とでは、やはり気候もずいぶん違うのでしょうか。

農業技術の向上や品種改良、輸入や備蓄によって、表面的には不作の甚大な影響を免れることはできていますが、現在でも天候によって農業に被害の出ることは多くあります。記憶に新しいのは平成5年(1993)の大凶作で、大規模な冷害や台風被害が原因となり、…

蘇我氏の仏教儀礼で雨が降らなかったということは、仏教の権威がまだ充分ではなかったということでしょうか。

確かにそうした見方もできますが、ここでは蘇我氏批判/天皇称揚の恣意が強いと思います。また、仏の力より天皇の神的力の方が上であることを示さなければならない政治情勢もあったでしょう。それは皇極朝のことというより、恐らくは天武・持統朝の課題で、…

男の孝徳より女の皇極の方が先に即位していますが、この頃の王位継承の基準は何なのでしょう。

これは難しい、現在でも女帝の位置づけをめぐって議論の絶えない問題ですね。古代において女帝が即位する際には、皇族やその依拠勢力である豪族どうしの間で充分な折り合いがつかない情況にあるとき、前天皇の皇后としてその調整役を果たすべく皇位に就く場…

民衆は、皇極天皇と斉明天皇が同一人物と知っていたのでしょうか。

大事な視点ですね。どの程度のスピードで、どの程度深く認識していたかは分かりませんが、古代の民衆にも天皇の個性に関する情報はある程度伝わっていたものと思われます。それは、各国の地理や産物、伝承などをまとめた『風土記』に、固有の天皇の伝承を持…

『日本書紀』が天皇によって記述態度を変えているのはなぜなのでしょう。書き手が朝廷側である以上、民間の評価を無視して天皇を賞賛すればよいと思うのですが。 / 『日本書紀』は天皇権力の偉大さを示すものなのに、どうしてわざわざ神や自然の脅威を描いたのでしょうか。

ひとつには自然崇拝を基底とした古代人の宗教的心性、もうひとつには中国的な歴史叙述のスタイルの踏襲によるものでしょう。『書紀』が史書である証ともいえます。前者については、天皇は自然神を超越した存在を志向していながら、その宗教的権威も自然神崇…

『日本書紀』における大化改新の記述の信憑性はどれくらいでしょうか。

これは古代史における大論争が繰り広げられてきたところですね。現時点では、改新の諸政策については実効性の疑わしいもの、記述に粉飾の目立つものがあるものの、乙巳の変のクーデターと、それに連動する政治改革が行われたこと自体は否定されていません。…

歌が呪術的な意味を喪失するのはいつのことでしょう。

中国の『詩経』より踏襲した「歌は鬼神を揺り動かすもの」という意識は、奈良時代の藤原浜成『歌経標式』、平安時代の紀貫之『古今和歌集』序にまで続いてゆきます。本来、宗教儀式と密接に結びついていた芸能が娯楽・芸術として確立してゆくのは中世後期、…

高所で行う国見について、天皇は、自らの足ではなく乗り物に乗って登ったんですよね?

そうですね。明確な記述はないですが、おそらく輿のようなものを使って、担がれて登ったのでしょう。

国見とは支配地域の確認であるとのことですが、この当時天皇が支配していた地域とはどれくらいの広さだったのでしょうか。

国見自体は、その視界の及ぶ範囲にしか効果を及ぼしませんので、天皇は行幸して移動し、重要地域の高所に登っては国見をしたようです。支配地域の方は、それとは関わりなく広範囲に及んでいて、すでに5世紀の雄略天皇の頃には東国から九州までを支配下に入…

国見についてですが、天皇が「みる」ことによって権力が浸透する、と認識していたのは誰なのでしょう。

主に支配層ですが、みること/みられることに呪術的な意味を認めていたのは広範な階層だったようです。古代中国では、戦争の際に媚女というシャーマンが相手をみつめて呪う、呪術合戦が行われます。目を象徴的に表した青銅器の類も見つかっています。いまの…

木本儀礼の際に、許可が得られないということはあったのですか。それとも、形式的に行っていただけですか。

許可の得られないことはほとんどなかったと思われますが、たとえば以前に授業で扱った『日本書紀』推古天皇二十六年是年条など、樹木が伐採に抵抗するという話は残っています。この伝説には木本儀礼を行った形跡もみえますので、祭儀の執行中に何らかの異常…

式年遷宮のために、杣山の樹木がなくなってしまうということはなかったのでしょうか。

伊勢の杣山には時代的変遷があります。当初は神宮周辺で調達していたようですが、次第に広範囲に及び、江戸期には木曽山へ固定されたようです。神宮の建築物を賄うには充分だったようですが、恐らくは周辺の農村、政治勢力との山をめぐる競争があり、良材を…

遷都は疫病が流行したり、占いで悪い結果が出るなどして行われたのだと思いますが、式年遷宮もそれが発展して行われるようになったのでしょうか。

式年遷宮は造営の場所自体をまったく変えてしまうわけではないので、凶事を契機に行われたのではありません。詳しくは分かりませんが、20年は木材の耐用年数を表しており、老朽化による新築を意味するのないかという説があります。ちなみに、式年の「式」と…

式年遷宮は、最も近くていつ行われるのですか。

いますでに進行中です。最初の山口祭から最後の御神楽奉納まで8年を要しますが、今回の第62回遷宮は2005年から始まり、2013年に終了することになっています。すでに御木曳までが終了し、今年は地鎮めが行われる予定です。詳しくは下記のURLを参照してくださ…

藤原宮の場合、建設にはどれくらいの期間、労働力を費やしたのでしょう。労働力に充てられたのはどのような人々だったのでしょうか。

講義でも述べましたが、労役としての仕丁と、日雇いの雇夫といった単純労働力が主力であったと考えられています。前者は8世紀の養老令制で2000人強が上京し(廝丁も含めれば2倍)、各司庁へ配分されていました。唐令にはない制度なので、藤原京で本格的に…

エビノコ郭の呼称は何に由来するのですか。

この区画の発見された地名、小字名に基づいていますが、岸俊男氏は、「蘇我蝦夷の子」を意味するとも述べています(『日本の古代宮都』岩波書店、1993年、54頁)。小澤毅氏などは、適正な呼称とはいえないと批判し、「東南郭」の名称を用いるべきであると述…

西洋古代、キリスト教では「徴利禁止法」がありましたが、日本の寺にもそのような法令があったのでしょうか。

古代国家は仏教を支配のイデオロギーとして称揚しますので、当初は氏寺も含めた全寺院に財政的援助を行いますが、やがて国家公認の寺院や官営寺院のみを保護するようになってゆきます。その転換点のひとつになるのが霊亀二年(716)の寺院併合令で、豪族が利…