2009-05-11から1日間の記事一覧

テレビで阿修羅象の運搬を扱っているとき、僧侶が魂を抜く儀式を行っているのをみました。そういった「魂」は、仏像が作られたときから存在していたのでしょうか、それとも長い年月のなかで生まれてきたのでしょうか?

あくまで聖なる存在のカタチを模倣したもので、それ自体が神聖なわけではないにもかかわらず、仏像には何らかの神的な力が付与されてゆきます。それを「神霊が宿る」というイメージで捉える傾向は、やはり日本仏教で顕著です。いわゆる仏像の魂抜きや魂入れ…

平城京や平安京のような整然とした古代都市と、江戸のような雑然とした近世の都市のイメージはずいぶん違いますが、それはどうしてなのでしょう?

平城京や平安京は、政治的目的によって意図的に創出されたもので、その意味では社会的・経済的なものとしての「都市」の定義からはかけ離れた存在です。礼的秩序を視覚化するために採られた整然とした区画配置も、庶民の日常生活とは無関係に設定されたもの…

古代からかなり大規模な環境破壊が行われていたことが分かりました。ではなぜ、「日本人は自然と共生してきた」という誤解が浸透してきたのでしょう?

日本列島の自然条件は植物の生育に適しているため、自然の回復力が強く、人間の爪痕が長く残存しない環境にあります。すなわち、過去の人間たちが破壊した環境も、多くは年月が経つうちに消えてしまい、後世の人々の記憶には残らなくなるわけです。こうした…

藤原京の後も、遷都をする度に近隣の山々がはげ山化していたのでしょうか?

現在の大阪湾は、8世紀頃まではかなり内陸部にまで入り込んでおり、生駒山地の西側の麓に津があるような環境でした。それが、10世紀頃には史料に船の座礁の記事が出始め、湾が次第に土砂で埋まっていったことが判明しています。その原因こそ、淀川水系上流…

高校のときに日本史の先生が、「都は下水施設がなかったので排泄物が積み重なり、度々遷都せざるをえなかった」といっていましたが、本当でしょうか?

藤原京段階から、すでに汚物を水路を通じて排出する仕組みはできていました。しかし、平安京に至るまで水路の清掃は充分行き届かず、また、庶民がゴミや動物の遺体を次々に廃棄するので、水路がすぐに詰まってしまって汚水が溢れ出るという情況はありました…

藤原造営にはどれくらいの労力を費やしたのでしょう。 / 造営の際に石材を採ったり木材を伐採したりした人々は、どのような労働者だったのでしょう。

労役としての仕丁と、日雇いの雇夫といった単純労働力が主力であったと考えられています。前者は8世紀の養老令制で2000人強が上京し(食事を担当する廝丁も含めれば2倍)、各司庁へ配分されていました。日本律令の手本となった唐令にはないものなので、藤…

藤原遷都の際、造営が完全に終わってから移るのでしょうか。また、造営にはどれくらいの時間がかかったのですか。

藤原遷都は持統天皇8年(694)12月ですから、天武が新城の建設計画をスタートしてから実に18年が経過しています。しかし、工事が本格化したのは持統朝になってでしょうから、10年弱といっていいかも知れません。遷都の際、政務を行いうる機能は備えていなけ…

藤原周辺はただでさえ湿地が多いのに、周辺で伐採したら災害が起きるのではないでしょうか。そうした情況は、自然を支配しようとする神話と対立するのではないでしょうか? / 祟りが起きたり、都全体が呪われたり、不吉な土地になるということはなかったのでしょうか。

斉明朝の飛鳥開発では土砂崩れ等を暗示する記事があるのですが、藤原については認められず、むしろ『万葉集』には、自然と調和した都であることを讃嘆する歌が載せられています。水の湧く低湿地であることは、古墳時代以来の聖地感覚に合致しており、人心の…

藤原京建設による環境への影響について、反対する人はいなかったのだろうか。

上にも挙げた斉明朝の開発の際には、それに対する批判を大義名分に掲げた有間皇子の謀叛がありました。藤原京の造営過程においては目立った反対行動は起きていませんが、政府が律令国家建設のために着々と制度を整え、祭祀や儀式を繰り返して周到に人心の鎮…

自然環境の破壊について、藤原京を画期に大規模化するというのは唐突な印象がありますが、それ以前はどうだったのでしょうか。

もちろん、規模こそ違え、縄文・弥生・古墳と各期にわたり開発は進展してきました。縄文期には、日本列島の平野部はほとんど森林に覆われていましたが、弥生から古墳期に至る稲作農耕の展開によって、かなりの部分が伐採されてしまったことが分かっています…

古墳時代、死者の国に人間を連れてゆく「乗り物」として舟と馬があるとのことでしたが、現在馬についての信仰は消えてしまっているようです。なぜ舟だけ残ったのでしょう。

それは、現代に至る交通手段の発展のなかで、人間を遠くに運ぶツールとしての馬の位置が、次第に低下してきたからでしょう。冥界へ人間を運ぶことができるのは、人間の想像を超えた移動力を持つからに他なりません。日本では中世あたりから、地獄へ亡者を運…

箸墓古墳について、誰の墓なのか諸説ありますが、何か文献に基づくものなのでしょうか。

大まかにいって、崇神朝の倭迹々日百襲姫の墓とする説、卑弥呼の墓だとする説があります。前者は『日本書紀』にその旨明記されていて、後者は邪馬台国=大和説を前提に、箸墓古墳の造営年代とその大規模さから推測されたものです。『書紀』に描かれる百襲姫…