2009-05-12から1日間の記事一覧
キリスト教のいい方は、やはり旧約・新約を前提として、約束された救済から現世をみるとそれはもはや神の国であるということでしょう。それは一見現実の肯定にみえて、やはり現実の向こう側に真理を設定した世界観なのです。一方の本覚論は、何の前提もなく…
これは2回目の結論部分に関わりますね。実際、殺生戒を完全に徹底しようとすれば、人間は生きてゆけません。その意味で、生命に差別を設けるインド仏教の見方の方が現実的ではあるのです。中国や日本の草木成仏論は、そうした差別に疑問を感じ、樹木を殺害…
我々が人間である限りは当然の疑問です。しかし、仏教は本来、世界における「存在」も主体の属性も認めません。いわゆる「無我」の立場なので、本人の意志にこだわること自体が執着であり、煩悩のなせる業なのだと考えるのです。かりそめに過ぎない自己の存…
地獄の成立は、仏教以前のインドにおける冥界観、西域や中国における独自の冥界観が絡み合ってきますので、必ずしも仏教の論理で説明できるわけではありません。あえて説明を加えようとするなら、地獄の世界は衆生の行動を戒めるための方便であり、悪業に傾…
そう考えていいと思います。当初、仏教が中国へ入ってきたとき、人々はその思想を理解するために儒教の言葉・概念を用います。また、六朝から隋唐にかけて仏教の民衆化が進むなか、道教やその他民間信仰との交渉もあって、だんだんと仏教の様相が変わってゆ…
哲学的に議論しようとすると、森羅万象は存在なのか関係なのかという問いに収束してきます。自己をモデルとする主体的存在が確固としてあり、それらが相互に関係し合うことで世界が成り立っているとみるのが存在論なら、その存在さえ関係の網の目があたかも…