2009-05-29から1日間の記事一覧

先生は、最初の方で『三国無双』の話をされていましたが、日本史以外にも興味があるのですか?

ありますねえ。ふだん読んでいる文献からすると、分野としては、日本古代史がいちばん少ないかも知れません。学生時代は、歴史でいえば西洋史のアナール学派、人類学や社会学、宗教学、哲学の本ばかり読んでいました。よって方法論的には、いまでもフランス…

実をいうと基礎知識が足りず、講義の内容に付いていけません。授業で扱う分野についての、初心者向けの概説書などはありませんか。

広汎かつ専門的な領域を扱っているので、全体をカバーするような概説書、入門書はありません。古代史のプレゼミ等で「参考にしうる概説書の最新のもの」として紹介するのは、講談社の『日本の歴史』シリーズ26巻と吉川弘文館の『日本の時代史』シリーズ30巻…

最近の考古学関係のニュースで、「古墳の分析により、邪馬台国奈良説の可能性が高くなってきた」とありました。先生はどう思いますか?

以前にもどこかで話をしたことがあるのですが、現在歴博が大きく主張している見解は、放射性炭素同位体による絶対年代の分析方法が変わり、年代スケールが大きく変更されたことに拠っています。歴博では、とうぜんそのスケールの正当性を喧伝していますが、…

龍骨が漢方薬の材料として使われていたというのが興味深かったです。当時、薬はどの身分のひとまで使用できたのでしょう。

民間医療には、さまざまな薬石や薬草が用いられ、庶民にも利用されていたでしょう。しかし、中国医学に基づく投薬ということになれば、飢饉や疫病に対応した賑恤政策ででもない限り、民間には触れる機会はなかったと思われます。

史料32のなかに「尼寺」が出てきますが、この時代から尼寺というものが存在していたのですか。

驚くなかれ、日本最初の寺院は尼寺だったのです。そして、日本最初の出家者は女性です。ともに蘇我馬子の仏教行政に関わるもので、寺は豊浦寺、稲目が向原宅を喜捨した向原寺に由来します。出家者は司馬達等ら渡来人の娘で、恵禅尼・禅蔵尼とともに高句麗僧…

秦氏が政治の中心から退くというのは、中央との関わりを完全に断ってしまったということですか。 / 蘇我氏が没落したからというだけで、秦氏は政界から身を引いたのですか。

「蘇我氏が没落したから」というのではなく、政界の混乱に巻き込まれるのを避けたということだと思われます。例えば、やはり上宮王家と密接な繋がりを持っていた小野氏(妹子らを輩出)も、同じ7世紀後半〜8世紀、中央から姿を消し本拠の近江国に引き籠も…

山背大兄王が、なぜ弟である泊瀬王や父親の寵臣であった摩理勢よりも蘇我氏に味方したのか、よく分かりませんでした。彼は、そのことによって自分が孤立するとは思わなかったのでしょうか。

山背大兄にも即位の野心はあったと思われますが、父親の教えに従ったものか、結局兵乱になることを嫌ったのでしょう。また、摩理勢事件の直前には、山背は蝦夷と何度も繰り返し意見交換をしています(その意見はすれ違いがちなのですが)。どうなろうと蝦夷…

『書紀』の墓所破壊の記述・古墳の機能が面白かったです。首長霊継承の祭祀・饗宴の説明も、『書紀』の記述として説明されているのでしょうか。

古墳にどのような機能があったのかについては、実は充分には立証されていないのです。首長霊継承祭祀の場であるという考え方が最も有力ですが、もちろんそれを否定する見解もあります。『書紀』にはそのものズバリの記述は存在しないのですが、散見する「天…