2009-06-08から1日間の記事一覧

史料に出てくる人物の名前の読みが難しいです。自分で調べるにはどうしたらよいですか。

レジュメには、史料の初出部分でいかなる本に依拠したかを挙げてあります。例えば、「日本古典文学大系」「日本思想大系」など。これらのなかにはいわゆる注釈本、すなわち原漢文の史料を書き下しにして読み仮名を振ってある書物もあります。読み方が分から…

飛鳥の蘇我氏主導による仏教と、奈良時代の国家主導による仏教の相違は何でしょうか。

仏教史の一般的整理では、飛鳥時代の仏教は氏族仏教であり、氏族の安泰や繁栄を祈願する現世利益的性格が強かったと理解されています。それと奈良時代の国家仏教とが比較されて論じられるのが普通ですが、しかし、奈良時代にも氏族の仏教はあり、民衆の仏教…

女性に差別的視点を持つ仏教の視点は、中国から入ってきたものですか。

インドの時点で、例えば『法華経』には、女性は仏教で尊貴な存在とされる梵天・帝釈天・魔王・天輪聖王・仏になれない(五障)、ゆえに成仏する際には一度男に変化する必要がある(変成男子)などといった記載があります。これは現実への執着の否定であり、…

地獄の裁判で、無罪が出ることなどはありうるのでしょうか。それとも地獄は決定で、どの地獄に落とすかを決めているのでしょうか。

出ないでしょうねえ。閻魔による裁判などは、仏教のなかではかなり新しい思想なので、六道の伝統的考え方と整合的でない部分もあるかと思います。また、扱っている経論によって意見の相違もあるでしょう。しかし、範疇としてはすでに地獄のなかですし、閻魔…

皇族に「○○王」「○○親王」などと付く基準を教えてください。

基本的には律令に規定があり、それに基づいています。継嗣令第1条に、「凡そ皇の兄弟、皇子をば、皆親王とせよ。以外は並に諸王とせよ」とあります。つまり、天皇の兄弟と子供が親王(女性は内親王)、それ以外はすべて王(女性は女王)となるわけです。

外国人が国内の政治に参加するのは難しいと思うのですが、渡来系の人々はどのように台頭したのでしょう。

とにかく、中国や朝鮮半島の先進文化に基づく知識・技術、それが王権に重宝されました。なかでも、律令や国史の編纂事業に関わった人々は功績を認められ出世します。しかし、五位以上に到達するのは希で、実務官僚としては重視されても国政に参与することは…

僧を還俗させて政治に参加させることについて、当の僧侶の側には反発はなかったのでしょうか。

奈良時代は、僧侶になるためには国家に公認・証明してもらわなくてはならず、試験に合格して得度が認められたものは、国家鎮護の呪術を担う官僚の一種となります。僧侶には僧侶のすべき仕事があるわけです。還俗という措置は、彼が僧侶としてよりも別の特殊…

なぜ『藤氏家伝』には、房前や宇合、麻呂の伝はなく、武智麻呂だけなのでしょうか。

以前にも少し触れましたが、編纂者の藤原仲麻呂は淳仁天皇から「恵美押勝」の名前を賜り、藤原氏から独立して恵美家を興しました。それは、ちょうど不比等が鎌足の「藤原」姓を独占的に継承し、中臣氏から独立したことと相似形の方策です。つまり『家伝』は…

古い時代には、なぜ不比等の名前が「史」と書かれ、なぜまた「不比等」へ変更になったのでしょう。

田辺史に由来する命名だとすれば、やはり元来は「史」と書いたものでしょう。しかし、奈良時代を経過して藤原氏の力が伸張し、鎌足や不比等に対する崇拝が強くなってきた結果、「他に並ぶ者のない偉大な人物」の意味で、「不比等」の表記を使うようになった…

中臣氏全体が藤原姓を名乗った経緯を教えてください。

そのあたりのことを明確に語る記述はないのですが、中臣鎌足が臨終に際して藤原姓を賜った後、中臣大嶋や意美麻呂も藤原姓を名乗っているので、一時期は宗族全体が藤原姓を許されたものと考えられるのです。しかし、『続日本紀』文武2年(698)8月丙午条に…

草壁の早世について、大津の祟りによるものとの噂はなかったのでしょうか。

史料としてはまったく出てきません。大津皇子は、ほどなく二上山に改葬されますが、同山が常に藤原宮からみえることから、「鸕野皇后や草壁皇子にとって、大津皇子の怨霊というものがいまだ意識されず、恐怖の対象にならなかったことを示す」とする見解もあ…

天武の遺業を実現させて律令国家を建設した持統の手腕に驚きます。しかし、草壁から文武への皇位継承を強行させるあたり、女帝の独断的振る舞いに家臣が反発したりすることはなかったのでしょうか。

独断的にみえても、持統の行動は、朝廷を構成する豪族たちの意志をしっかり反映し、代弁していたのだと考えられます。天武や高市が草壁即位を承認し、葛野王が文武即位に協力したように、内乱を回避するためにも、父子嫡流相承が妥当とみなされたのかも知れ…