2009-05-01から1ヶ月間の記事一覧

先生は、最初の方で『三国無双』の話をされていましたが、日本史以外にも興味があるのですか?

ありますねえ。ふだん読んでいる文献からすると、分野としては、日本古代史がいちばん少ないかも知れません。学生時代は、歴史でいえば西洋史のアナール学派、人類学や社会学、宗教学、哲学の本ばかり読んでいました。よって方法論的には、いまでもフランス…

実をいうと基礎知識が足りず、講義の内容に付いていけません。授業で扱う分野についての、初心者向けの概説書などはありませんか。

広汎かつ専門的な領域を扱っているので、全体をカバーするような概説書、入門書はありません。古代史のプレゼミ等で「参考にしうる概説書の最新のもの」として紹介するのは、講談社の『日本の歴史』シリーズ26巻と吉川弘文館の『日本の時代史』シリーズ30巻…

最近の考古学関係のニュースで、「古墳の分析により、邪馬台国奈良説の可能性が高くなってきた」とありました。先生はどう思いますか?

以前にもどこかで話をしたことがあるのですが、現在歴博が大きく主張している見解は、放射性炭素同位体による絶対年代の分析方法が変わり、年代スケールが大きく変更されたことに拠っています。歴博では、とうぜんそのスケールの正当性を喧伝していますが、…

龍骨が漢方薬の材料として使われていたというのが興味深かったです。当時、薬はどの身分のひとまで使用できたのでしょう。

民間医療には、さまざまな薬石や薬草が用いられ、庶民にも利用されていたでしょう。しかし、中国医学に基づく投薬ということになれば、飢饉や疫病に対応した賑恤政策ででもない限り、民間には触れる機会はなかったと思われます。

史料32のなかに「尼寺」が出てきますが、この時代から尼寺というものが存在していたのですか。

驚くなかれ、日本最初の寺院は尼寺だったのです。そして、日本最初の出家者は女性です。ともに蘇我馬子の仏教行政に関わるもので、寺は豊浦寺、稲目が向原宅を喜捨した向原寺に由来します。出家者は司馬達等ら渡来人の娘で、恵禅尼・禅蔵尼とともに高句麗僧…

秦氏が政治の中心から退くというのは、中央との関わりを完全に断ってしまったということですか。 / 蘇我氏が没落したからというだけで、秦氏は政界から身を引いたのですか。

「蘇我氏が没落したから」というのではなく、政界の混乱に巻き込まれるのを避けたということだと思われます。例えば、やはり上宮王家と密接な繋がりを持っていた小野氏(妹子らを輩出)も、同じ7世紀後半〜8世紀、中央から姿を消し本拠の近江国に引き籠も…

山背大兄王が、なぜ弟である泊瀬王や父親の寵臣であった摩理勢よりも蘇我氏に味方したのか、よく分かりませんでした。彼は、そのことによって自分が孤立するとは思わなかったのでしょうか。

山背大兄にも即位の野心はあったと思われますが、父親の教えに従ったものか、結局兵乱になることを嫌ったのでしょう。また、摩理勢事件の直前には、山背は蝦夷と何度も繰り返し意見交換をしています(その意見はすれ違いがちなのですが)。どうなろうと蝦夷…

『書紀』の墓所破壊の記述・古墳の機能が面白かったです。首長霊継承の祭祀・饗宴の説明も、『書紀』の記述として説明されているのでしょうか。

古墳にどのような機能があったのかについては、実は充分には立証されていないのです。首長霊継承祭祀の場であるという考え方が最も有力ですが、もちろんそれを否定する見解もあります。『書紀』にはそのものズバリの記述は存在しないのですが、散見する「天…

仏教思想には、「一切衆生悉有仏性」など生命平等主義的な考えがあるはずだが、なぜ六道のなかの畜生道は人間道よりも下に位置するのだろうか。

別の講義でも話したのですが、確かに仏教には「生命圏平等主義」的な考え方があるのですが、そこには様々な留保も付けられているのです。例えば「一切衆生悉有仏性」という文言の典拠である『大般涅槃経』ですが、この経典の別の箇所では、石や瓦礫などの「…

伝統と革新のバランスが崩れると、どのような影響があったのだろうか。/ 神格化された天皇の意図が果たされなかった場合、どのように言い訳されたのだろう。

非常に抽象的ないい方になりますが、改革の進め方が急激でありすぎ、旧来のものの考え方やそれを重視する勢力、旧体制から利益を得ている勢力をないがしろにしすぎると、反対派を強固にし、ときには反乱を招くこともあるでしょう。孝徳〜持統朝の間に謀叛事…

祈年祭は神と天皇との矛盾のなかで衰えていったとのことですが、農耕予祝儀礼そのものがなくなってしまったのでしょうか。

そういうわけではありません。農耕の豊穣を祈る祭儀、あるいはそれに感謝する祭儀は、年中行事のなかで最も基本的なものです。民間では古来より現在に至るまでずっと続いていますし、国家的にも形を変えて存続してゆきます。国家祭祀の形態は、祈年祭にみる…

三種の神器はいつごろ確立したのでしょう。中国にはそれに相当するものはあったのですか。

実は、確立していたのかどうか定かではないものなんですね。まず、剣・鏡・玉の3点セットは、5世紀後半頃、神祭りの道具として列島各地へ画一化されてゆきます。恐らく、大王が天皇として神格化される際に、神祭りの祭具も即位儀式のなかへ取り込まれたの…

私の実家は条里の真ん中にあります。通っていた高校は陣屋跡に建っているのですが、江戸時代の変則的な町並みなども条里制のような整地に基づいていたのでしょうか。

大規模な整地と舗装は古代的開発の特徴なのですが、江戸時代の町や村も、都市の圏内であれば整地を伴った可能性がありますね。ようは町並みが変則的な否かではなく、家々を立てるための平坦地の確保がどのように行われているか、治水や灌漑などの仕組みがど…

仏教が伝来していた当時も、宮廷では天皇を神と信仰していたのでしょうか。神仏の関係がどうなっていたのか気になります。

そうです。ですから、聖武天皇以前は、天皇が仏教と神祇祭祀をバランスよく交流させながら天下を統治する、という形式を採ります。仏も基本的には、数多ある神々のひとつと認識されるわけです(この点、実は細かいところで異論があるのですが、今は措きます…

持統天皇は何度も吉野へ行幸して自然のエネルギーを得ていたとのことですが、それが公に分かれば権威が失われると思うのですが?

そうした完全なヒエラルキー構造としては、天皇と自然との関係をみていなかったと思います。天皇は、確かに自然神の上に立つものとして位置付けられてゆきますが、その内実には自然を祭祀するシャーマンとしての本質をずっと持ち続けてゆきます。講義でお話…

鵜飼いの漁法は、正直あまり快いものではない。一度動物の口に入ったものを、天皇の食事に出してもいいものだろうか。鵜飼いにはよほどの霊性があるのだろうか。

7世紀段階では未だそのような感性は表れていないでしょうが、平安〜中世にかけて仏教の不殺生戒が広がってくると、鵜漁によって得た魚は「殺生によって得たものではない」として重宝がられます。結局、鵜匠が宮内庁の所属になってゆくのは、そういう供御に…

古代の村人には、和歌を詠えるだけの教養があったのですか?

「藤原宮の役民の作る歌」は宮廷歌人の仮託であると考えられていますが、奈良時代になると、例えば東国の農民のなかにも和歌を詠えるものが確実に出てきます。そのことは、『万葉集』に収録されている東歌、防人歌から明確に分かります。当時、兵部省からの…

和歌にみられる天皇の神聖の表現の変化は、先生独自の見解なのでしょうか?

藤原宮・京建設と天皇即神表現の成立を結びつけるのは私の説ですが、人麻呂の試行錯誤については、神野志隆光さんや遠山一郎さんの研究をもとにしています。参考文献リストに掲げた、お2人の著作を確認してみてください。

亀卜が日本へ入ってきたことによって、鹿を使った太占は行われなくなったのでしょうか。

王権のなかでは用いられなくなりましたが、地域社会においては実践され続けています。現在でも、青梅の御獄神社など、関東の数社に鹿卜の神事が残っています。弥生時代には、各地で鹿卜の痕跡が見つかっていますし、鳥取の青谷上寺地遺跡では、200余もの卜骨…

亀の甲羅の亀裂がすべて同じような形になるのなら、どのように吉凶を判断したのでしょうか。

実際には微妙な相違があります。殷代では、亀裂が入るときの音も重要な意味を持ったようですが、後代になると、亀甲への傷の付け方が変わり、より多様な亀裂とその読み取り方の定型化が進みました。『史記』亀策列伝には、亀裂の図こそ消えてしまったものの…

亀卜の実験では、亀はどうやって手に入れて、甲羅を剥がしたのでしょうか。

授業中も話しましたが、亀甲の入手について、ぼくは関与していなかったので分かりません。殷代では、マレーシア産の大陸亀を使用していた形跡があるものの、大部分は20センチ程度のクサガメやハナガメでした(すなわち、海亀を用いた日本とは違って、すべて…

神亀と玄武とは関係はありますか?

ともに亀が神聖視された結果である、という点では共通します。ただし、玄武が五行思想に取り込まれ北方の守護神に位置付けられた存在であるのに対し、神亀や霊亀は天意を伝えるためのメディアであり、もっと広汎な位置付けが可能なものですね。

「亀」について。日本では海亀などが周期的に産卵に来ていたり流れ着いたりするので、神聖視されてゆくのは分かるのですが、中国ではなぜそうなったのでしょうか。

そもそもの神聖化の理由としては、1)牛や羊の肩胛骨と比べて多くの平面を確保できるため、2)食亀の習俗との関係、3)亀の希少性・宝物性、4)亀の霊験性・呪術性(亀霊崇拝)などが指摘されていますが、現在最も注目を集めているのは4)です。近年、黄河下…

石川麻呂、摩理勢のように反乱を起こして死んだ場合、その職掌は蘇我氏の誰かに引き継がれるのでしょうか。あるいは没収されてしまうのでしょうか?

石川麻呂の場合をみると、その財産は中大兄が命令して収公しています。職掌の任命は、それが公のものであれば大王の権限ですから、一度大王のもとに返還され、群臣の意見を聞いたうえで適任者が選出されたものと思います。当然、朝廷を把握している人間の意…

蘇我石川麻呂の娘が異母弟日向に奪われたとの話は、近親相姦になるのではないかと思います。大王家内部での伝はあるとしても、臣下の事例は処断の対象になったのでしょうか?

唐律で最大のタブーとされた十悪には近親婚(「内乱」)が含まれていますが、それを継承した日本の律令では八虐となり、近親相姦は除かれています。唯一規定があるのは父祖の妻との奸で徒三年、唐律が父祖の妾との奸でさえ絞なのに対し、明らかに軽い処罰で…

石川麻呂の子の「秦」が気になるのですが、職掌以外で「秦」と出てくるのは珍しいのではないでしょうか?

他に事例がないわけではありませんが、どう考えていいか悩むパターンではありますね。ただし、藤原不比等が、幼少期に田辺史大隅の家で養育されたために「フヒト」と名付けられたことからすると、蘇我秦も、秦氏との関係を全体に考えた方がいいように思いま…

今回の講義のなかで、秦氏と蘇我氏が協力して寺院を建造したとありましたが、当時の建造ではどのような協力体制が採られたのでしょう。

考えうることは、1)人の移動(工人どうしが協力して活動する)、2)モノの移動(瓦などの物品のみが供与される)、3)技術の移動(建築・造営に関する専門技術が供与される)の3パターンとそれらの組み合わせです。具体的に、各寺院でどの形式が採られたか…

『日本書紀』は、朝鮮などの記事について改竄された箇所が多いとされていますが、国内のことは信用していいのでしょうか?

もちろん、きちんとした史料批判が必要です。崇仏論争については以前お話ししたとおりですし、大化改新をめぐる記述にも様々な潤色があります。聖徳太子関係記事も然りでしょう。現段階では、『書紀』各巻の成立時期が概ね判明してきており、使用された漢籍…

聖徳太子の存在に対して議論があるとのことですが、なぜ現在、「彼は存在していなかった」とする主張が台頭してきたのでしょうか。

聖徳太子の業績に対する史料批判は昔からあったのですが、現在の傾向は中部大学の大山誠一氏の研究が発端となっています。大山氏の論点は多岐にわたりますが、その基盤は、太子の業績を伝える『日本書紀』と「推古朝遺文」(法隆寺系統の仏像銘文等々)の徹…

和歌の贈答が始まるのはいつ頃からなのでしょう。

歌のそもそもの役割は神霊と交渉することにあったと思われますが、やがてそれが、人間と人間を結びつける手段としても使われるようになります。いわゆる「歌垣」では、男女が歌の掛け合いを行うことで、結婚相手を選びます。『風土記』には歌垣に関する地名…