2010-05-17から1日間の記事一覧

実際の条里制敷設の際には、どのような技術的困難があったのでしょうか。 / 当時の土地整備の技術はどのようだったのでしょう(分度器もなかったのにどのように直角を測ったのでしょう)。

もちろん、実際の敷設はそれほどスムーズに進んだわけではありませんでした。すでに藤原京、平城京などで高度な土地造成、建築技術を駆使していた古代国家ですから、土地区画における技術的困難は大きなものではなかったでしょう。問題は労働力や財源の確保…

墾田永年私財法によって墾田の私有が認められたとのことですが、税が取れなくなってしまうと没収されるのでしょうか。

基本的に既墾地は没収されませんが、ある意味で没収を強行する仕組みは存在しました。未開発地の開墾を行うには、まず国司に申請して許可を得、位階に応じた限度に基づき土地の占定を行います。しかし、それから3年経っても開墾が行われない場合には、国司…

高校では、「皇族が太政大臣になると知太政官事になる」と習ったのですが、二つは違うものなのですか。

やはり厳密には異なります。まず太政大臣は大宝令・養老令に規定のある令制官司ですが、知太政官事は律令に規定のない令外官です。慶雲3年(706)には、右大臣に準じて季禄を支給すると定められているので、待遇的には太政大臣より下となります。また令制前…

草壁皇統が藤原氏と関係が強いという点が、よく分かりませんでした。

これは前提的な話なのですが、草壁皇統の維持と発展という政治目標は、草壁の母親である持統天皇と藤原不比等との政治的協力のなかで実現されてきたものなのです。不比等の前半生には分からないことが多いのですが、31歳の折に従五位下判事という法曹関係の…

石川夫人が蘇我氏系というのは、蘇我石川麻呂と関係があるのでしょうか。

関係ある、といえばありますね。蘇我氏のうち、本宗家は乙巳の変で滅び、石川麻呂も結局は謀叛を疑われて滅ぼされてしまいます。石川麻呂の「石川」は地名で、蘇我氏の根拠地のひとつ、河内国石川郡(現大阪府富田林市の東半と南河内郡一帯)に由来します。…

阿倍氏について。供御の職には権力が集中しやすいとされていましたが、供御に奉仕する人々にはそれほど高い身分の人はいなかったのではないですか。

大化前代、氏族制のなかで阿倍氏という氏族が台頭してくる過程の話ですね。まだ位階が成立する以前の段階です。供御は常に王の側近に奉仕し、その身体の安全を保証する役割を持っていますので、隠然たる権力の温床となります。もちろん、実際に食物の料理や…

処分を行わなかった長屋王の子供による反逆が起こる心配はなかったのですか。 / 長屋王の生き残った子孫で、長屋王の疑いを晴らそうとした人はいなかったのですか。

「心配はなかったのか」といわれますと、可能性としては否定できないものがあったでしょう。武力を用いた反逆自体は、自分たちにとってもリスクが大きいのであまり計画されないでしょうが、藤原氏の対立勢力になる危険は常にあったと考えられます。藤原氏の…

吉備内親王の子供ではない、石川夫人の子供の桑田王まで自殺させられたのはなぜでしょうか。

藤原不比等も石川(蘇我)娼子を娶り、武智麻呂・房前の2人を得ていますので、長屋王の石川夫人との婚姻も不比等の意向によるものでしょう。桑田王は、身分的に皇位継承には関連してきませんので、恐らく藤原氏側の判断では排除の対象者に入っていなかった…

長屋王の自由にできた武力はどの程度あったのでしょうか。

せいぜい舎人や家司の人々、その氏族的繋がりだけだったのではないかと思います。皇族の場合、後援となる氏族勢力が姻族や養育氏族に限定されますので、彼らの協力が得られなければ、政治的・軍事的に孤立することを余儀なくされます。長屋王は、藤原氏・阿…

藤原氏は多くの人物を傘下にしていたようですが、一方で藤原氏と同等の力を持った氏族はどれほどいたのでしょうか。 / 大伴氏と阿倍氏はなぜ長屋王の変に積極的に関与しなかったのでしょうか。

藤原氏の政治勢力に匹敵しえたのは、議政官クラスでは、やはり大伴氏や阿倍氏でしょう。ともに軍事関係に明るく、擬制的な同族関係を結んだり、職務を通じて傘下に入った氏族は非常に多かったと考えられます。彼らは、朝廷という支配者集団と自氏族を安定的…