2010-07-19から1日間の記事一覧

夏休みに仏教について勉強したいと思うのですが、入門書でお薦めのものはありますか?

ひとりの著作だと偏りがありますので、下記のシリーズを読んでみてください。研究入門の巻などもありますし、日本仏教の多彩なありようを分かりやすく理解できます。日本仏教研究会編『日本の仏教』第1期1〜6・第2期1〜3、法藏館

古代人の神、自然との関わり方について興味を持ち、レポートを書きたいと思っています。参考文献が少ないと思うのですが、お薦めのものは何かありますか?

遅くなってすみません。残念ながら、一般向けの分かりやすい本というのはあまりないのです。専門的な論文集になりますが、ヒントになりそうなものを少々挙げておきます。斎藤正二『日本的自然観の研究』1〜4、八幡書房、2001〜2006年増尾伸一郎・工藤健一…

日本は遣唐使などで中国文化を必死に取り込もうとしていましたが、科挙に対してはどうだったのでしょうか。

日本も平安期に科挙を導入していますが、その効力を充分に発揮できないままに廃止されました。理由のひとつは、日本の律令国家が畿内政権の様相を呈していたためです。すなわち、大化前後よりの伝統的畿内豪族が、律令制というシステムを用いて、諸国を支配…

観音信仰とは具体的にどのようなものですか。

観音菩薩に対する信仰で、所依経典は『法華経』、もしくはその一篇 観世音菩薩普門品を独立させた『観音経』です。観音菩薩は、修行の階梯を経てすでに如来となる実力を備えているにもかかわらず、生身の肉体を持っていた方が衆生を救済するには便利であると…

当時の朝廷が仏教を重視していたのは分かりましたが、神道に対してはどうだったのでしょう。 / 仏教国家建設のなかで、神道側の反応はどんなものだったのでしょう。

当時はまだ、「神道」なるものは存在していません。共同体祭祀を国家が天皇・神祇官のもとに体系化した天神地祇、それを運営する神官の制度があったに過ぎません。当時の主要神社は、宇佐八幡宮が行った「天下の諸神を率いて大仏造営を助ける」という護法善…

「平城京が世界の中心である」という思想は、対外的にも発揮されたのでしょうか。

そうですね、とくに東大寺大仏の存在は重要でした。天平勝宝4年(752)6月丁酉には、来日した新羅使の金泰廉らが、一切経の納められた東大寺で大仏を礼拝しています。大仏の建設時には宇佐八幡が託宣を下し、諸神を率いて協力すると申し出た神仏習合の事例…

東国行幸が壬申の乱を追体験するためだとすれば、行幸に参加した人々のどれだけがそれを理解していたのでしょう。

これも難しいですね。ただし、壬申の乱は奈良王朝建国の神話ですし、『日本書紀』は多くの官人たちが学んでいたはずです。未だ『万葉集』は編まれていませんが、壬申の乱を歌った万葉歌も存在しました。貴族層はもちろん、付き従った官人たちのなかにも、そ…

史料50で、「朕は意ふところ……驚き怪しむべからず」といっていますが、もし積極策ならばはっきり云わない理由は何ですか。

いい質問ですね。確かに、『続日本紀』のどこを探しても、聖武天皇が天武天皇の後を辿ったとは書いていません。しかし、行程をみると間違いなくそれは事実で、広嗣の乱という戦争の最中であったことをみても蓋然性は高いと思います。となると、『続日本紀』…

『石山寺縁起絵巻』にある宝鐸の出現は、「よくある話」だったのでしょうか。 / 宝鐸を埋めるのはどうしてでしょう。土地を清めるためですか、何かしきたりがあるのでしょうか。

特定の地域では、「よくある」とまではいいませんが、「聞く話」ではあったのでしょう。良弁との関わりでいえば、ちょっと興味深い事実があります。天武朝に飛騨国へ漢方薬の白朮採取に派遣された益田直金鍾という人物がいるのですが、彼の本貫である飛騨国…

子供を攫うのが「鷲」であることに、何か特別な意味はあったのでしょうか。

鷲は、世界中で一般的にみられた最大の猛禽のひとつですので、人間の子供をさらってゆくには、大きさ・強さとも最も自然であるとみられたのでしょう。実際にそうした事件があったのかも知れません。しかしその根底には、例えばアジアの穂落し神やヨーロッパ…

良弁の出自が諸説あるなかで、どうして相模国説に特定できたのでしょう。

詳しくは、拙稿「良弁の出自と近江国における活動」上(『芸林』46-2、1997年)を参照していただきたいのですが、良弁の出自には、大別してa)相模国・漆部氏説、b)相模国・百済氏説、c)近江国・百済氏説の3種があります。それぞれ典拠となる文献を精査し…

玄昉、良弁、道鏡は医療行為を通じて政治権力と結びついたようですが、それだけで政界で一級の力を手に入れられるのでしょうか。

確かに大きなきっかけには違いありませんが、彼らの力はそれのみに限定されるものではなかったでしょう。玄昉は真備と並んで当時最新・一級の知識を持った人物でしたから、諸兄のブレーンとしては適任であったと思われますし、良弁も無名の僧侶から出身して…

予備校時代、玄昉は宮子を誑かして性的関係に持ち込み、宮子を通して権力を振るったと習ったのですが、本当でしょうか。

うーん、いちばん人口に膾炙しやすい俗説の類ですね。例えば道鏡と称徳天皇が肉体関係にあったとする話も、早く奈良末期〜平安初期には出てきますから、どの時代、どの世界においてもこの手のゴシップネタはうけるんでしょうねえ。しかし、史料的根拠はまっ…

憑童が何なのかよく分かりませんでした。 / 夏の怪奇番組などで、霊能者が芸能人に憑依した霊と会話したりするのをみることがあります。駆り移しをしなくても霊の声を聞いたりできるのでしょうか?

憑童は童子、憑坐は童子もしくは女性で、ともに霊を乗り移らせる容れ物です。しかし、これは単なる受動的な容器ではなく創造的な容器であり、霊は憑坐につくことで初めて我々に理解できる言葉を発するのです。ただし、それは文脈や論理がうまく通っていない…

孝謙天皇が道鏡に入れ込んでしまったのは光明子らの影響があったのではないでしょうか。また、当時の医師の地位は僧侶と比較するとどの程度だったのか、気になります。

「入れ込んだ」のが客観的にどういうことなのかは考える必要がありますが、確かに、宮廷における内道場の位置、後宮女性たちと看病禅師との関係に、一定のラインが引かれていたとはいえるかも知れません。身分の上下については、例えば宮廷内における役割を…