2011-05-23から1日間の記事一覧

古墳時代が寒冷多雨な気候だったとすると、疫病などは流行らなかったのでしょうか。

流行したと思います。私は、古代の文献に記載される「祟り神」は、古墳寒冷期のなかで形成された宗教思想だと考えていますが(『日本災害史』参照)、それらの記事には、天候不順や飢饉などのほかにやはり疫病の流行が語られています。祟り神の発想のもとに…

古墳を造るために周囲の森や山を切り崩していたとしたら、何か土砂災害のようなものは起こらなかったのでしょうか。 / 当時は植樹などの方法はなかったのでしょうか。また、どのくらいの周期で土地を移動して新たな土地へゆくのでしょうか。

恐らく、そうした災害は各地で頻発していたでしょう。古墳自体にも、築造中の事故や、完成した墳丘が土砂崩れを起こすこともあったと考えられます。『日本書紀』のなかには、飛鳥京周辺を整備する過程で、各地に土砂崩れや樹木の枯朽などの事態が発生したこ…

古墳の築造は数学などの知識・技術を活かして造られたのですか。それとも、何となくの感覚だけでしょうか。

すでに大陸や半島では、数学的知識を活かして精緻な建築物が築造されていました。古墳についても、見た目の感覚だけでは、ほぼ統一された規格を各地へ頒下してゆくことはできません。渡来系の人々の知識・技術を活用して、これまで列島の人々がみることもで…

古墳はいつ頃まで神聖な場所と考えられていたのでしょう。 / 現在森林のようになっている古墳は、古代から人の手が入っていないと考えていいのでしょうか。 / 前方後円墳などの古墳内は宮内庁により調査不可とされていますが、神聖な場所であるとのほかにどのような理由があるのでしょうか。また、これからこの問題はどうなってゆくのでしょう。

律令国家においては、宮内省の諸陵寮という機関が保護すべき陵墓をリストアップし、人員を配置して管理をしていました。規定を破って領域を侵すものは処罰されましたが、時折、陵墓地域で樹木を伐ったり家畜を放し飼いにしたりすることへの禁令が出ているこ…

古墳は、被葬者をカミとして再生させる舞台だとの説があるとのことですが、すると古墳の数だけカミがいるということでしょうか。 / 中国の神仙思想が将来されていたとすると、当時の日本における「霊」や「祖先」を祀る思想と区別されていたのでしょうか、それとも習合していたのですか。

古代日本はアニミズム、パンセイズムの宗教情況にあったと思われますので、カミが複数存在するという事態はまったく不思議ではありません。問題はむしろ、人がカミになるという情況がどのように承認されたかが問題です。上記の説を唱える人たちは、どうも前…

古墳の形がモニュメントとなってヤマト政権が出現したのではなく、ある規格をもった複数の政権が連立しており、勢力争いを経て最終的にヤマト政権へ吸収されたのでしょうか。 / 古墳の分布図で、前期から後期にかけて地方の古墳の規模などが小さくなってゆきますが、ヤマトの勢力が伸張し地方のそれが衰えたということでしょうか。 / テレビなどで、関東にも大きな政権が存在したとの話をよく耳にしますが、どれくらいの蓋然性があったのでしょうか。

授業でもお話ししましたが、前期〜中期はヤマト王権の勢力の発展、後期はそれとともに、巨大古墳の社会的・政治的需要が希薄化することが、主な理由として挙げられるでしょう。弥生後期の地域的特性を引き継いだ多様な墳丘墓が各地に生まれ、そのなかで、全…

登呂遺跡の消滅は海進によると考えられたそうですが、古墳寒冷期が認められたとすると、実際の消滅の理由は何だったのでしょうか。

やはり、弥生後期の社会の流動化現象のひとつと捉えるべきでしょうね。この時期には、大阪府の池上曽根遺跡など、かつての拠点的な巨大集落が姿を消しています。寒冷化と鉄器の普及に伴う社会変動が、列島内に大きな動揺をもたらしたものでしょう。

出雲の荒神谷遺跡等々の青銅器埋納も、共同体祭祀から首長祭祀への移り変わりのなかで起こったことと考えてよいのでしょうか。

荒神谷の埋納自体は、必ずしも青銅器祭祀の廃絶と関連付けなくてもよいようです。とにかく大量の青銅器を埋納することが、共同体の勢力を誇示することに繋がったのでしょう。しかし、出雲ではそれからしばらくして、中期末頃には青銅器祭祀が廃絶します。問…