2011-05-27から1日間の記事一覧
中臣氏の原初形態の一部は、恐らく鹿卜(いわゆる太占)を担っていた集団であったと思われます。近年の古代氏族研究の進展において、ウヂ名が職掌名を反映し、各地の品部などと密接な関わりを持ち国政を遂行している集団は、自然発生したのではなく王権に意…
いいえ、藤原氏は「政」、中臣氏は「祭」という、祭政一致であったマツリゴトの分化が起こります。しかし、歴史叙述に関する職掌は藤原氏へ移るようですね。これは、律令国家のなかで、歴史叙述に関与する機関が太政官寄りとなり(内閣書記である弁官局にて…
亀卜の開始は古墳時代ですが、関連の遺物が発見されているのは、玄界灘周辺と関東南部海岸地域に限られます。律令体制における卜部の規定をみますと、伊豆国・壱岐国・対馬国が卜部の貢上国となっており、上記の遺物出土地域とほぼ重なります。いずれも海上…
直接占いと通じる部分もありますが、世界を表現する基本的な数であることが大きいでしょうね。しかし、3人のうち誰かが賢い、あるいは愚かだという設定は、「どれかが当たりである」という認識の表れかも知れません。昔話を陰陽五行で読み解くという人もい…
基本的に官司の建物が面する「庭」であったろうと思います。庭は、我々が現在考えるような広場であると同時に、神を招くための場所でもあり、祭祀や楽舞などは庭で執り行われたわけです。恐らく特別の竈が設営され、卜占をなすための「場」が整えられたと思…
そのあたりを充分解明するのは難しいのですが、説話的史料をみていますと、確かに「一回性の重要度」が増してきている印象はあります(すなわち、我々の考える占いのイメージに近付いてきています)。それは、上記の質問への回答のように、王が卜占の現場か…
「焼く」ことと「埋める」ことは、双方ともに「他界へ送る」ことを意味し、恐らく大きな違いはなかったと思われます。しかし、亀甲・筮竹が神霊の意志の宿るものであり、祭器・犠牲が神霊へ捧げられるものであるのに対し、祭服のみが自ら身に付けるものであ…
なぜでしょうね。もともとは、そうするしか鑽鑿を局所的に熱する方法がなかったのでしょうが、それが継続的に用いられるなかで特別な意味が付与されていったものでしょう。祭祀などの神聖な行為は手間を惜しんではならない、本来は合理化や形式化の考えが介…
亀卜の火は、亀卜の場において設営されるカマドから採られるもので、日常生活に用いられる火とは区別されていたと考えられます。しかしそれは、例えば料理を作るのに用いる火は世俗のもので、亀卜に用いる火は神聖だというわけではありません。火自体はいか…
はい、「帛書」といって、竹簡などと併用して絹が使用されていました。これは腐食して後世に残りにくく、史料として残存するものは少ないのですが、1973年に馬王堆漢墓より出土した帛書は、易書、道家書、『五十二病方』をはじめとする多くの医書・養生書、…
いえ、「史」自体は甲骨段階からみることのできる文字です。算木の問題は射儀の命中数を数えるといった解釈で、卜占自体の的中率に関することではありません。また、『説文解字』の「中正なり」という説明は、あくまで後漢の時点での解釈と考えればいいでし…
そうですね、国家の官職制度自体が詳細化・専門化して、分業が進んだ結果といえるでしょう。自ら占断をなす殷王の方が、祭政一致のプリミティヴな王権のあり方をよく伝えています。周王朝では、王権の宗教的権威が王から卜・祝・史へ移管され、機能の拡大を…