2011-06-20から1日間の記事一覧

神社で入手できる「破魔矢」は、どうして「矢」である必要性があるのですか。

武器が破邪の力を持つと考えられたことはすでに何度も話しましたが、まず中国戦国末の古典『礼記』に、神聖な樹木である桃で造った弓、同じく蓬で造った矢などが、破邪の武器として登場するのです。中国の出土文字文献には、戦国末のゴーストハントについて…

木鎮めの儀式は面白そうです。何か、当時の様子がよく分かる図集のようなものはありませんか。

あまり入門書的なものはないのですが、江戸時代における伊勢の式年遷宮を絵画的に記録した文献が、『神宮遷宮記』第7巻図録編(175.8:J523:1992:v.7)に収録されています。木鎮め祭儀についても描かれている場面がありますので、参考にはなるかと思います。…

平城京への移転がなぜ行われたのか、よく分かりませんでした。

これは奈良時代のテーマですが、最も大きな要因は、中国と対等に付き合うべく中国的都城を建築したつもりで、意気揚々と大宝の遣唐使を派遣したところ、現実の中国都城が藤原京とはまったく異なるという事態が発覚したためです。遣唐使の帰国後も、しばらく…

藤原京が、当時としては一新興氏族に過ぎなかった藤原氏の名を冠しているのはなぜなのでしょうか。不自然に思います。

「藤原京」という名称に関しては、実は、当時の正史であった『日本書紀』にも『続日本紀』にも出てこない名称なのです。『書紀』では「新益京」という表現を用い、天武の「新城」建設事業を引き継ぎ、飛鳥に対して新しく付け加えた都城と位置づけられていた…

藤原京の食糧事情、排水施設などはどのようになっていたのですか。

一応は都ですので、全国から物資が集積される流通の中心ですから、食糧事情は悪くなかったはずです。排水施設についても、縦横に水路が巡っていましたので、貴族邸宅などでは水洗のトイレも設置されていました。ただし、これは平城京や平安京においてもいえ…

藤原京の復原図において、宮殿が都の中心に配置されていることの意味とは何ですか。

これは、前代の飛鳥京までヤマト王権の中華思想的空間表現であった、「王宮の位置する場所こそが世界の中心である」という考え方が持続した結果でしょう。飛鳥では上記の発想のもと、須弥山像や世界樹としての斎槻が立てられました。飛鳥地域の地理的環境を…

藤原京が碁盤目状に分割された都市なのは、統一された単位があったからですか。

藤原京の建設に際しては、その5年前に頒下された飛鳥浄御原令が重要です。律令国家の建設へ向けて、都城の整備・律令の編纂は並行して進められてきましたので、度量衡から宅地班給の規定まで、基本となる諸制度は完成していたと思われます。しかし、藤原京の…

藤原京の再現CGは興味深かったのですが、どの程度信用のおけるものなのでしょう。なぜ復原建物などは、建物の高さや形まで分かるのか疑問に思います。想像などは入っていないのでしょうか。

講義でもお話ししましたが、平城京・平安京に関する文献・絵画・考古資料、それらが依拠した中国の都城に関する史資料が利用されていますが、やはり想像力に依存する部分は大きいと思います。例えば、遷都1300年でも話題になった平城京跡の復原朱雀門でさえ…

日本の大王は、天皇として政治体制や宮城を中国式に変更してゆくにあたり、明治天皇のように祭祀王から軍事的大王へ変質するということはなかったのでしょうか。

古代日本の大王・天皇についても、斉明天皇の東北経略・半島出兵や、天武天皇の壬申の乱など、節目節目に強大な軍事力が動員されることは認められます。しかしそれが長期間恒常的に行われ、王権自体の軍事的色彩が濃厚になることはなかったようです。ひとつ…

ヤマト王権が中国的秩序から自律的に活動しようとしたとき、何か中国から圧力のようなものはなかったのでしょうか。

史料的には確認できませんが、それも上記に触れた中国王朝との遠隔、海の問題が有利に働いたものと思います。中国王朝は辺境の倭について、朝貢してくれば政治的に利用しようとしますが、そうでなければ積極的に関与する意味(余裕?)を見出せなかったので…

魏が、邪馬台国へ銅鏡を賜与したのには、どのような意味があったのでしょうか。

大量の銅鏡を下賜したのは、一方で中国王朝の力を見せつけるためでしょうが、賜与される側としては、それを同盟あるいは従属下の政治集団へさらに賜与し、連合・奉仕関係を強固にするねらいがあったものでしょう。実際に三角縁神獣鏡はそのように使われたよ…

倭国の軍事力は、実際に朝鮮三国にとって援助や脅威になるほどのものだったのですか? / 百済は倭と中国との間を仲介して、どのようなメリットがあったのでしょうか。 / なぜ中国や朝鮮は、日本へ攻めてこなかったのでしょうか。

実際に「好太王碑文」をみますと、倭が半島に出兵して百済や新羅を支配下に置いているとの文言が出てきます。これは高句麗の立場を正当化するための碑文ですので、ややバイアスのかかっている点に注意しなければなりませんが、それでも倭が三国の関係を変化…

武王が上表した「百済」における軍事統率が認められなかったのは、宋が百済との関係を考慮したからですか?

そうです。百済は、当然倭より中国王朝との関係が長く、やや反抗的な高句麗を牽制する意味でも重視すべき存在でした。宋としては、倭自体にも半島情勢を自国に有利に調整するうえで関心を持っていたと思われますので、一方を公認し一方を認めないという飴と…

倭国王の時代は、使者は確実に宋へ行けたのでしょうか?上表文が皇帝のもとへ届かない場合もあったのですか?

やはり、航海については安全というわけにはゆかなかったでしょうし、恐らくは朝鮮半島の南東岸を進んだと考えられますが、半島内の政治的情勢によりうまく通信ができない場合もあったでしょう。だからこそ、倭は加羅諸国や百済と同盟を結び、半島南部に政治…

倭や朝鮮半島では使っていた言葉が異なると思うのですが、倭国の使者が中国へ赴いた際、通訳などはいたのでしょうか?

講義のなかでも触れましたが、例えば『宋書』のなかで讃が宋へ派遣したとある司馬の曹達は、名前からして渡来人、恐らくは中国人です。当時の府官制下における文書行政や外交、とくに上表文の作成などに関しては、中国や朝鮮半島からの渡来人に負うところが…