2011-11-30から1日間の記事一覧

御歳神の神話で、白猪・白馬・白鶏を供えるとの記述がありましたが、なぜこの3種だったのでしょう。

中国の礼制では、牛・羊・豚が代表的犠牲動物で、これは牧畜文化の産物ですね。道教の祭祀などをみると、鶏が捧げられる事例もよくあります。牛や豚には劣りますが、これも家畜の代表ということなのでしょう。また、朝を告げるということで、太陽との結びつ…

仏壇に肉を供えないのは、仏様や先祖が肉を食べないからなのですか。

7日の講義でも扱いましたが、大乗仏教では基本的に殺生と肉食を禁じています。これは罪業となりますので、お供えをする生者にもされる死者にも悪い結果しかもたらさないことになります。仏教的に考えれば、肉を供えられた死者はそのことで悪所に生まれ変わ…

神聖視されているのにいちばん食べられているという鹿は、そもそもなぜ大切に扱われるのでしょうか。

鹿の神聖視は弥生時代に始まりますが、これは地霊の象徴だろうと考えられています。鹿の角が樹木を思わせるので、生命の生育それ自体を体現する獣だと認識されたのでしょう。弥生時代には稲作が始まりますが、それは、人間の日光=太陽・天=雨・土地に対す…

肉食文化に地域差はなかったのですか。例えば、沖縄や北海道でも肉食はあったのでしょうか。 / 動物の種類によって、食べてよい・わるいが規定されることはなかったのですか。 / 列島の肉食文化が、牛・豚・鳥の定番になったのはいつでしょう。

もちろん地域差はありますが、逆に北海道や沖縄は、稲作イデオロギーの浸透する本州各地域より、肉食文化が前近代から持続的に存在するといえるかもしれません。北海道はアムール川流域の狩猟採集文化に接続しており、アイヌなどはまさに狩猟採集民族という…

そもそも、肉食はなぜ忌まれるのでしょうか。

肉食忌避の早い例は、仏教教団におけるもの、あるいはアジア文化では、服喪や潔斎に際して回避される場合もありました。これらは、肉食による軽い興奮状態が精神の安定を乱すため、とみられています。そもそもが、生命尊重という考え方ではないんですね。

鹿などが川で狩られるのは、やはり動きにくいので狩りやすいのでしょうか。

そうです。北部アメリカに生活する狩猟採集民チペワイアンは、同じく北アメリカ産のトナカイ「カリブー」を主要タンパク源として狩猟しています。彼らのカリブー猟は、秋、北のツンドラ地帯で出産・子育てを行っていたカリブーが、寒さを避けて南の針葉樹林…

カチカチ山の話について、先生は「おばあさんを騙した狸は、これを殺して婆汁にしてしまう」と紹介していましたが、ぼくの読んだ話では、おばあさんは殺されることはなく、最終的にウサギの力を借りて狸を反省させる筋になっていました。このような相違はどうして出てくるのでしょう。

昔話は、伝承される地域の文脈で、内容に微妙な差異を生むことになります。それは普通にあることなのですが、上のような事例は、恐らく出版社が幼児用に改変したバージョンだと思われます。一般的に昔話には残酷な要素も強いのですが、これが近現代に国家利…

牧畜技術が起源となって王権の支配機構が構築されてゆくと考えられるとのことですが、これはオリエントだけでなく、中国など他の地域ではどうなのでしょうか。

確かに、中国王朝も牧畜を基底に発展した支配機構を持っていますね。古代国家論や王権論は、歴史学の分野においては、未だその起源に属する議論が活性化されていません。かつてマルクス主義歴史学が全盛であった頃は、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の…

民が首長に、また天皇に各地の産物を捧げるシステムが確立されたのは理解できるが、本当に民衆の一人ひとりに供犠の概念が植え付けられていたのだろうか。

ちょっと誤解があるかもしれません。供犠は王権や国家が始めたものではなく、一般の共同体単位でふつうになされる祭儀です。昨年私もパネリストとして参加した御柱祭のシンポジウムでは、60年余り前まで実施例のあったという、「通りがかった妊婦を殺して神…

人身供犠というと、神との婚姻というイメージが強いのですが、人間も神の食料として捧げられていたのでしょうか。

多様性はありうると思いますが、個人的には、神の嫁とするより神の食料とする方が古い形態であったろうと考えています。性交渉は、象徴的には、食事との類同性を極めて強く持っています。現代日本でも、「食べる」という表現が、性交渉を意味するスラングと…

トイレの歴史について学んだとき、江戸初期には金肥は野菜や米などと交換され、後、地域ごとに金肥をとりしきる業者が出現したと知りました。農村に貨幣経済が浸透して成金や破産者が出たことと、このトイレの歴史とは関係あるでしょうか?

密接な関連があると思います。金肥の使用は、大都市を抱える地域の郊外農村から普及してゆくとみられますが、それと貨幣経済の浸透とは比例的に進行するものと思われます。昔話によくみられる形式のひとつには、貧しい暮らしを送る老夫婦や独身男性が、外部…

比叡山そのものが信仰の対象であったため、御所の門松にもその竹が使用されたのでしょうが、そうした神聖な山から木を切り出すことに畏れはなかったのでしょうか。

中世の文書群からは、寺社の領域に武士や庶民が押し入って伐採や狩猟を行い、寺社が幕府へ訴えたり、あるいは呪詛の法会を行ったりする争論の事例が多くみうけられます。樹木を伐ったことによる仏罰、祟咎の物語などは多く確認できますので、確かに畏怖もあ…

森林破壊は思ったより古くから存在しているのに驚きました。ほかにも、現代的問題と思われてるのに実は昔からあった、というような問題はありますか?

環境問題でいえば、鉱毒などによる汚染もあります。奈良の大仏造立は有名な話で、必ず高校までの日本史でも学びますが、その鋳造過程で生じた銅の毒が平城京を汚染した可能性が指摘されています。確かに、東大寺周辺に繋がる平城京の水路からは、銅の成分が…

なぜ日本の王朝・国家は、日本の風土に適したものではなく、米を税の主要な対象に据えたのでしょうか。

中国を模倣したこともありますし、弥生〜古墳期にかけてある程度普及していたこともありますが、やはり財源として計算がしやすいことでしょうね。水が豊富な日本列島の環境においては、確かに水田稲作が適合的な部分もあるのですが、北方地域や山間部にまで…

里山は、どうして現在のように理想化されてきてしまったのでしょうか。これは上からの政策でしょうか、それとも民衆の発想なのでしょうか。

単に上からの政策とばかりはいえません。政治・社会・経済全般において米が至上の価値を持つものと扱われてきたために、それを生み出す里山の価値も高く置かれるようになったのでしょう。しかし、恐らく高度経済成長が終わるまでの日本では、それほど「里山…

現代において、科学技術が発展しずぎると自然との共生が難しくなるのでしょうか。科学はすでにヒューマニズム批判を受けて変化していると思います。

私も、人間の社会や文化の豊かさを持続できる科学技術の発達には、完全に希望を失ったわけではありません。ただし、今回の原発事故のように、豊かさを求めてきた結果が破綻に繋がることも充分にありえます。最新技術の知識や限界について、もはや一般社会が…