2012-05-14から1日間の記事一覧

青銅器を大量に出土した遺跡が島根県に集中しているのは、出雲の神話的風土と関係しているのでしょうか。

奉献説や贈与説は間違っていないと思うのですが、出雲についてはそれとともに、早くに青銅器祭祀を放棄して墳丘祭祀に移行した点も併せ考えるべきなのでしょう。近畿や北九州に比べ、山陰では早期に四隅突出型の墳丘や特殊器台を用いた祭祀形式が採用され、…

青銅器は壊れやすいので実用に向いていなかったと習いましたが、それは関係ないのでしょうか?

あくまで鉄器に比べてということで、とうぜん石器や木製品より丈夫です。列島で使用され始めた頃の青銅器は、武器は刃の部分も小さく鋭く研磨がかけられていたり、銅鐸は内側に舌が付いていたりその痕跡が認められるので、明らかに実用品だったと考えられて…

「八百万の神」という考え方は、いつ頃から始まったのでしょうか。

「八百万」の言葉が確認されるのは8世紀段階ですので、厳密には7世紀前後の開始とみるべきでしょう。当然、森羅万象に精霊的存在をみるアニミズムは縄文時代から行われていたと思われますが、「八百万」の思想は、神々の間に天神/地祇の区別を設け、ある…

今ある神社は、すべて独立棟持柱を持っているのでしょうか。 / 弥生時代の建物は、どのように復原されたのでしょうか。なぜ独立棟持柱があると推定できたのですか。 / 日本に巨大建築を建てるほどの巨木があったのでしょうか。

独立棟持柱を有するのは、伊勢神宮の社殿に起源する神明造の神社建築です。これを神社建築の古態と考え、その原型を弥生の巨大建築にみるのが「弥生神殿論」です。池上曽根遺跡の巨大建築は、遺跡に残る柱穴や、各種の土器絵画などを参考に、現在の姿を想定…

韓国では旧石器時代にドルメン、すなわち石への信仰が存在していましたが、日本にはそういった遺跡・遺構はないのでしょうか。

以前に紹介したストーンサークルは、ドルメンの一種ということができるでしょう。古墳時代になると、神を招く場所、神の宿る場所として巨石=磐座が広く認識され、歴史時代の神社の原型のひとつを形成することになります。山水を背景に持つ古代神社の多くは…

穂落神として崇められたというツルと米との関係について、「ツルも米も白いもの」というのは、米が精米された情況でのみ成り立つ連想ではないでしょうか。弥生時代から精米の技術はあったのでしょうか?

日本列島において穂落神として確認できる鳥はツルですが、講義でもお話ししたようにこれは中世になってからの話です。考古学ではこれを銅鐸・土器絵画の長頚・長脚鳥に援用し、ツルやサギであるとの解釈を持ち出しているわけです。中世のツル信仰は、精米さ…

平安時代には宮廷などで愛玩動物を飼っていたようですが、ペットという概念・嗜好はいつできたのでしょうか。

人類の歴史上、最も早くに家畜化されたのはイヌであるといわれています。彼らは狩猟のパートナーとして、または住居や村落の守護者として、人間と「共生」してきました。縄文時代の貝塚から発見される犬骨には、例えば肋骨・四肢骨が折れて癒着した痕跡のあ…

弥生になって鳥や鹿が信仰され始めると、猪や蛇は信仰されなくなったのでしょうか。

猪や蛇に対する信仰は、古墳時代以降も確認されますので、目立たなくはなっていますが、まったく消えてしまいはしなかったと思います。銅鐸絵画にも、鹿に比べれば圧倒的に少数ですが、猪が描かれる例が存在します。土器絵画には、龍のような正体不明の物体…

鹿と弓を持った人物が描かれている2枚の銅鐸絵画のうち、左側の絵の方には鹿に角がないようにみえます。何か意味があるのでしょうか。

角のない鹿についても、かつて論争がありました。1つの説は、これを角が生え替わって抜けた春の状態を指す、とするもの。もう一方の説は、角のない鹿とある鹿が同時に描かれる例があり、角のない鹿には子鹿が付いていることが多いところから、これを牝鹿で…

日本人は肉を食べるようになって体格が大きくなったと聞いたことがあるのですが、肉食が普通だったということは、ただ単に栄養状態がよくなった結果大きくなったのでしょうか。

肉食が忌避されていなかったといっても、現在のように毎日毎日肉ばかり食べられたわけではありません。それは贅沢なご馳走であり、また滋養強壮などの薬用であって、狩猟によってはまれにしか食べられなかったのです。現在のような供給体制が整備され、日本…

古代というと見境なく動物を狩猟するイメージがあるが、それでも動物表象が神聖視されていたりして驚いた。

狩猟採集社会には「動物の主」という概念があり、人間が捕食対象とする動物のリーダーが、人間との契約に基づき、祭祀などと引き替えに皮や肉を差し出すとされています。そうしたアニミズム的考えのもとでは、食べる動物と信仰する動物との間に差異はありま…

西日本がいち早く大陸の文化を受容できたのは、やはり位置的に大陸に近いところにあるためですか。

もちろんそうですが、気候・環境的に近似していたのも原因でしょう。西日本の植生は照葉樹林帯を中心としたものですが、これは朝鮮半島南部から中国大陸南西・南東部へ伸びてゆき、文化・社会のありように共通性を保持しています(照葉樹林文化)。稲作はこ…

どの程度の渡来人が来ていたのでしょう。それほど大量の人数がやって来るほど、航海術が確立されていたのでしょうか。

渡来人の規模の算出については、まず遺跡や遺物から推定される弥生時代の人口、飛鳥時代の人口を基礎に、農耕社会や狩猟採集社会の人口増加率を割り出して内的増加数を計算し、これと飛鳥時代の人口との差を渡来人の数量として埋める方法を採っています。極…

縄文時代の埋葬法で、再葬していたことが分かるのはどうしてですか。

遺体をそのままに埋葬すると、それが何者かによって攪乱されない限りは、人体の形状や各部の繋がりが窺えるような状態で出土しますし、その大きさに合わせた穴が掘られたことも、層土の様子から分かります。しかし、白骨化したあとに掘り出されて再葬された…

日本の古代の「表」は、紀元前のことを「B.P.」と書くのはどうしてですか。キリスト教ではないからですか。

講義でもお話ししましたが、「B.P.」は「Before Present」の略で、紀元前の意味ではありません。放射性炭素同位体を使った年代測定のように、結果が「現在から何年前か」を指すときに用いる単位です。

歴史学と考古学の違いとは、具体的に何ですか。

歴史学は主に「書かれたもの」である文献史料、考古学は「出土したもの」である遺跡や遺物を研究対象とし、それぞれ歴史的事実、歴史像を描き出してゆきます。歴史学に「史料批判」と呼ばれる史料の読み方、方法論があるように、考古学にも、モノを扱うため…