2012-06-11から1日間の記事一覧

幕府政治のルーツが府官制にあるとのことですが、頼朝はそれを知っていたのでしょうか。

きちんと実証したわけではありませんが、源頼朝が幕府を開く際に、大江・三善という文人官僚を招いている点が重要です。とくに大江広元は、紀伝道(当時の歴史学)の大家である大江維光の名跡を受け継いでいました。また、広元の曾祖父匡房は、院政期随一の…

府官制は、朝鮮においても行われていたのでしょうか。

行われていました。『宋書』夷蛮伝では、高句麗王と百済王に将軍位その他が授けられ、漸次褒進されている様子をみることができます。恐らく、宋が半島経営をその思惑どおりに行うため、対立する諸勢力にそれぞれ称号を授け、牽制しあうようにし向けているの…

銅鏡を与えることで、どうして国と国との繋がりが出来たのでしょうか?

銅鏡は宝物として賜与したものでしょうが、その銘文には鋳造した国家の年号が入っているので、国と国との交通を証すものになったということでしょう。正式な形は、某国の朝貢に対し中国皇帝が賜与した旨を示す銘文が刻まれますが、この頃には大量生産され半…

卑弥呼が狗奴国と争ったとき、魏に軍の派遣を要請したものの受け入れられなかったと聞きましたが、なぜですか。 / 狗奴国の背後に呉がいたのではないか、という見解についてはどう思われますか。

「狗奴国の背後に呉がいた」ことは、可能性としては高いのではないかと思います。少なくとも、魏はそのように考えていたようです。「卑弥呼が魏の援軍を求めたが受け入れられなかった」というのは、史料的には正確ではなく、倭人伝による限り、「卑弥呼が狗…

『魏書』では倭国が好意的に扱われていたそうですが、推古朝の外交を扱った『隋書』では「蛮夷の書、無礼」などとされています。そんなにコロコロ評価の変わる中国の史書を、どの程度まで信用してよいのでしょうか。 / なぜ、『魏書』は倭についてそれほど記述を割いているのでしょう。呉のような海洋国家の方が、よほど倭と関わりがあったと思うのですが。

中国の歴代の正史は、時代ごとの王朝の意図を反映しますので、そのつどの政治的局面によって書き方が変わるのは当たり前です。それを充分に考慮して、批判的な読解を行わねばなりません。また、誤解のないように書いておきますが、いくら『魏書』が倭を好意…

亀卜などは、具体的にどう出れば吉で、どう出れば凶なのでしょう。

中国では、甲骨の裏側を定型的に削り込み、熱すると「卜」の亀裂が入るように調整して卜占が行われました(これが「卜」字の起源です)。この図形が美しく出ること、そしてキツという音の発生することなどが、吉凶判断の基準になったようです。周代頃には、…

日本では太占として鹿骨を扱っていましたが、中国では亀や牛の骨が使われていたとのこと。この相違は一体何を意味するのでしょう。

中国でも、狩猟採集時代には鹿骨を使用していました。これが、牧畜の開始に伴って牛や羊へと移行し、殷代に亀甲が主流になってゆくのです。しかし、中国東側の山東半島周辺では、中原地域で牛骨や亀甲が主流になった後も、鹿骨を用いて卜占が行われていまし…

亀卜に使用したのは、どのような種類の亀なのでしょうか。

殷代に主に使用したのは、陸地で普通に確保できるクサガメやハナガメでした。これは、殷に服属する周辺の異民族から、定期的に集められていたようです。日本ではウミガメが使われますが、これは日本が島国であったこと、中国からの導入の担い手となったのが…

甲骨文字のところで、亀を神聖視したとの話がありました。占いをするためには亀を殺したと思いますが、神聖視していたなら殺したりするでしょうか。

狩猟採集社会の説明でも述べましたが、アニミズム世界においては、ある動物の神聖視とその殺害とは矛盾しません。亀の場合も、卜占をする際に卜官が亀の神霊へ呼びかける祭文が読まれますので、当時の殺害は現代的な意味での殺害とは内容が異なるのだと分か…

中華思想は、アジア以外のヨーロッパ地域などにはなかったのでしょうか。

中華思想をどう定義するかによりますね。これは自国を中心として、周囲を文明の届かない蛮族とみなし、彼らを教化し文明に組み入れてゆくベクトルを持った思想です。そういう意味では、ヨーロッパの古典古代が周縁をバルバロイとみなし、やがてローマ帝国の…

「中華」は世界の中心を意味するとのことですが、それは中華人民共和国にも引き継がれているとしてよいでしょうか。もしそうなら、他国から批判されないのはどうしてでしょう。

中華人民共和国の「中華」も、もちろん世界の中心を意味します。しかし、国名におけるナショナリズムは世界に共通のものですから、国際秩序においてはある程度許容されているとみてよいでしょう。それを非難するのは、それこそ内政干渉というものです。例え…

須弥山石のところで「中華思想」が出て来ましたが、飛鳥時代の日本も自国が世界の中心であるとみなしていたとしてよいのでしょうか? / 当時から「世界意識」なるものがあったのでしょうか。彼らは自分たちが、世界を支配するほどの力を所有していると自覚していたのでしょうか。

一応は、現在のナショナリズムに近い世界意識を持って、世界の中心を標榜していたとしてよいでしょう。しかし、その「世界」が中国等々も含むものであったのかどうかは、議論のあるところです。例えば、雄略天皇時代の鉄剣銘からは、ヤマト王権が、中国王朝…

山口神社は、対象の山の木々が伐採されてなくなってしまい、山口祭儀を行わなくなってしまった後も、神社として残り続けるのでしょうか。

資料に示した山口神社の多くは、山口祭儀を行っていた場所に、恒常的な社殿が建立されるに至ったものと考えられます(すべての山口神社がそうだ、ということではありません)。それらのうち、もはや木を切り出さなくなった場所でも、地域や王権の守護神と位…

「杣」という字は国字ですが、まず音としてソマという言葉が生まれ、それから漢字が出来たのでしょうか?

音、すなわちヤマト言葉としての使用が先でしょうね。しかし、語源については諸説あり、定説をみていません。例えば、キソダテヤマ(木育山)の略、ソノムラ(薗村)が転訛したもの、ソグ(削ぐ)・ヤマ(山)の略、といった見解があります。

日本は朝鮮三国などに比べて頻繁に遷都が行われますが、その理由は何でしょうか。

これについては、議論が繰り返されており、定説をみない情況です。しかし、幾つかの理由を挙げることはできるでしょう。第一に、都城制を導入する前に行われていた歴代遷宮制が遺存し、天皇の代替わりごとに宮を変える慣習が持続していたこと。第二に、都城…

この時代の人々の服装は、麻のみで作られていたのでしょうか。『万葉集』には絹について言及があるので、すでに絹も伝来していたと考えていいのでしょうか。また、その生産が一般化するのはいつになってからでしょうか。

伝承としては、渡来人たちによってもたらされ生産が本格化したといわれていますが、恐らくは事実でしょう。中心的役割を担ったのは、新羅系の渡来氏族秦氏です。彼らは広汎な殖産興業を担いましたが、養蚕と絹の生産はその中核をなしていました。その後律令…

藤原京復原のCGについて、建物の色や形は何に依拠しているのですか。 / 人々の着ていた衣裳なども、当時の色彩を忠実に再現しているのでしょうか。

一応は、当時の発掘品や絵画に基づき、平城京や平安京の資料も参照することによって作成されていますが、もちろん推測であることは否定できません。限界があることに注意は必要です。

箸墓古墳が3次元レーザー測量によって卑弥呼の墓ではないかとされていますが、3次元レーザー測量とはどのようなものなのでしょうか。

対象物にレーザー光を照射し、その反射光が戻ってくる時間をもとに、精細な計測を行う方法です。レーザーを使った3次元スキャナ、と考えていただいていいでしょう。箸墓については、これを上空から行い、精密な立体復原図を作成しました。宮内庁の管理によ…