2012-06-15から1日間の記事一覧

我々の用いる私的言語・私秘的言語は、実証史学の枠組みからは抜け落ちてしまうものと思います。そこには「徴候」的要素がみられる、と指摘した知人がいたのですが、もし歴史学がそのようなものについて何かしらの記述をしようと試みた場合、どのような方法があるでしょうか。

カルロ・ギンズブルグの邦訳書に、『神話・寓意・徴候』(せりか書房、1988年)があり、そのなかに「徴候」という興味深い論文が収められています。ギンズブルグはそのなかで、何でもないような日常の記録に「徴候」を認め、重大な全体像を構築してゆく歴史…

古代中国において、史官は権力者の強制に抵抗して直書を行ったとのことですが、権力者の側はどのように感じ、どう行動したのでしょうか。

もちろん、権力者の側はその正当性を確立するため、史官側の直書に対し厳罰をもって応じることも少なくありませんでした。『春秋左氏伝』には史官=卜官による諫言が多く載せられていますが、それに従わなかった君主は多く滅びに至っています。こうした記載…

中国古代にみられる諫言は、後代の『史記』をはじめとする史書などに、少しずつ形を変えながら残っていったということでしょうか。

史官たちは歴代王朝や諸侯に奉仕しつつ、しかしその倫理的核は天や祖先に置いている。自らの仕える君主が天命に沿っていればその意に従うが、それに違背すれば躊躇なく筆誅を加える。それが、史官のひとつの理想型であるわけです。歴代の正史は一応その立場…

上野千鶴子さんの態度について、よく理解することができませんでした。現在の闘争というのは、どういうことなのでしょうか。 / アウシュヴィッツや従軍慰安婦問題などの過去の存在や犠牲は、上野さん的な見方では、過去のものとして扱えなくなるのでしょうか。現在においては、過去に犠牲とされたものは犠牲とは受け取られないのですか?

上野千鶴子さんらの標榜する構築主義を徹底するとすれば、私たちの認識する〈過去〉は、あくまで現在の私たちが現在の視点・価値観で構築する〈つくりものとしての過去〉に過ぎなくなってしまいます。すなわち、テクストと過去との繋がりはなくなり、そうし…