2012-07-13から1日間の記事一覧

先生はお坊さんですよね? こんな風にいろんな宗教のいろんな思想を考えていて、仏教の信仰が薄れるというか、信仰心に変化があったりしますか?

いえ、別にそういうことはありません。むしろ、自分の信仰について、ますます視野が深まっていっています。

最近話題になっている大津のいじめ自殺の問題で、学校や加害者を批判している人たちも、死者を自己同一化していると考えることができる気がしますが、先生はどうお考えになりますか?

「死者の無念を晴らせ」ということでしょうね。いじめについて、生徒も教員も現場を確認していながらなぜ隠蔽されてしまったのか、その原因、現状の問題点を解明し、今後犠牲者を出してゆかないよう改善を図ってゆくことは、悪いことではないでしょう。注意…

「見るなの禁」。なぜ「見る」ことがタブーとして作られる話が多いのでしょうか。視覚が、何か特別な意味を持っていたのでしょうか。

前近代においては、現在以上に五感を研ぎ澄ませた認識が行われていましたが、やはりそのなかでも、「みる」ことは特権的な地位を与えられていたようです。「みる」ことが世界を創り出す。ゆえに、みる/みられることによって、不用意に相手に影響を与える/…

講義のなかで〈鎮魂〉というキーワードが出てきましたが、魂を鎮めるための音楽というのは、歴史のなか、世界のなかにおいてどのようにみられるものなのでしょうか。西洋でいえば教会などでの鎮魂歌が想像されますが、そうした死者を取り巻く音の世界・音的環境というのは、伝統的な東アジア世界のなかではどのような変遷を経てきたのでしょう。

音階や旋律まで詳細に検討してみたわけではありませんが、例えばキリスト教や仏教など、体系化された巨大宗教においては、次第にレクイエムは荘重なもの、いいかえれば抑圧的な音感へ定式化してくるように思われます。それに対して民間のもの、例えば中国少…

死者の扱いは、各国間においてもやはり大きな相違が出てくるのでしょうか? それはその国の倫理観を示すことになるのでしょうか。

この狭い日本列島においても、各地域でさまざまな葬儀の方式、死者観の相違があるわけですから、とうぜん各国…というより地域や文化の相違に応じて、さまざまな死者の扱い方があります。そして、イコールでは結べないまでも、それは同地域・文化における倫理…

内田樹氏の言葉に、深く頷けるものがありました。過去から今日に至るまで、死者の死の意味は生者による都合のよい解釈がなされたものばかりだからです。このことから生者は死者より優勢との思考がみられますが、生者と死者の立場を平等にすることは出来ないのでしょうか。

時代のあり方、社会のあり方によって、死者と生者の関係は絶えず変動しているのかもしれませんね。確かに、生者の世界において常に死者が利用されている、消費されているという意味では、表面的には生者の方が優勢であるかにみえます。しかし、生者が死者に…

非業の死者の話で、私は祖母のことを、亡くなって以降、自分を守ってくれる存在として認識している。これも〈寄り添う死者論〉のなかに入るのだろうか?

近親者がその死を納得し受け容れてゆくための、もっとも効果的な言説のひとつであることは確かですね。お通夜や葬儀の場では、宗教の相違を超えて、この種の物語が提供されることが多いだろうと思います。しかし、物語りの主体が伝統宗教かそうでないかによ…

母を亡くしたとき、多くの人は〈寄り添う死者〉論を語りました。しかし、ぼくはそれが不快でした。ありもしないものをあるといわれ、それへの信仰を強制される。〈寄り添う死者〉はどこまで癒しなのでしょうか。

確かに、その言説を受容するひとからみれば、癒しになる場合も暴力になる場合もあるでしょう。主体の心理状態、感受性、語り手との関係など、さまざまな要因のなかで決まってくるのだと思います。それぞれがそれぞれの考え方のなかで、〈喪の仕事〉を果たし…