2014-05-23から1日間の記事一覧

シャーマンは病気などを経験して神聖性を帯びるとのことですが、これは死の世界に近付くことで境界的力を手に入れるとの解釈でよいのでしょうか。

もちろん、そうした考え方もできるでしょう。巫病とは力のマイナス面ですから、シャーマンの力自体は極めて両義的なものといえます。まさに「境界の力」なのですね。ですから現実の場合、師匠となるシャーマンの指導をしっかり受けなければ、コントロール自…

シャーマンとは、成巫譚にあるように、あらゆる困難を乗り越えなければなれない存在なのでしょうか。

すべてがそうとはいいきれませんが、困難を乗り越えることで世界との分断を回復する、精霊との交通を可能にする、あらゆる人の苦しみや痛みに共感する、そのような存在になったものとして尊敬されるわけです。例えば巫病の症状などは、本当に想像を絶します…

オイディプス神話の構造分析を聞いて、ヨーロッパの思考は二項対立的要素が多いように感じました。日本にはそうした考え方はないのですか?

構造主義の考え方では、人間は現実世界から自分にとっての環境を構築してゆくとき、二項対立のモデルを使って世界を分節すると考えられています。確かにそうした視角でみてゆくと、ヨーロッパ以外の前近代社会にも、多くの二項対立的構図をみることができま…

レヴィ=ストロースによるオイディプス神話の構造分析で、男女の性愛によって人間が誕生するとの事実を否定するという要素がありましたが、こうしたことは日本の神話などにも共通する考え方なのでしょうか。

男女の性愛を比定するようなベクトルは、神話のなかでも後世的なもの、国家が国民のアイデンティティーを維持・強化すべく作り上げた段階の神話や、倫理や道徳が意図的に盛り込まれた芸能・芸術段階の神話などにみられます。授業でお話ししたオイディプスな…

アルヴァクスの集合的記憶の関係で、例えばふとしたときに昔のことを想い出すことがありますが、これも集団的記憶に位置づけられるのでしょうか。

我々の意識や心理が社会的なものである以上は、記憶の想起も常に社会的にならざるをえません。ふとした昔の個人的体験の想起も、まずなぜその想起の機会が与えられたのか、その機会になぜその記憶が結びつけられたのか考えてみると、現在の自分が置かれてい…

エリアーデの研究で、ヨガの修行経験から神秘体験を得たのではとの話がありましたが、もともとヨガはどのような経緯で生まれたのですか。

ヨガはサンスクリット語のYoga、漢語では「瑜伽」と書きます。原義は「結びつけること」、自己と世界、法、超越者との合一を図る瞑想行で、仏教に至って大きく発展しました。広義においては、日本でいう坐禅に相当します。中国に仏教が伝来した3〜5世紀頃…

日本人の歩き方が、かつて手と足を同時に出していたのは、刀を抜きやすくするためであるというのを、剣道の授業で聞いたことがあります。

武術の身体として鍛錬されたものとしては、そのような説明の仕方になるでしょう。しかし、実際には刀を使用しない農民、町民らも同じような歩き方をしているので、全般的な説明にはなりえません。一般的にナンバ歩きやナンバ走りは、西洋的な歩行・走行と比…

1930年代頃の日本人の歩き方の映像は、どのような場面で記録されたものなのか気になりました。実験の風景でしょうか。

とくに実験のために撮影された映像ではなく、撮影された時期や地域、その動機などもさまざまに異なるフィルムです。それゆえに、かえって非西洋的歩き方の普遍性が浮き彫りになっているわけです。