2014-06-02から1日間の記事一覧

レポートは、特定の時代について書いてもよいのでしょうか。 / レポートについてですが、「通史」とは、とくに何かに的を絞ってその変化、流れを見てゆくものでしょうか。それとも全体の出来事を書いてゆけばいいのでしょうか。

授業中に説明したとおり、基本的には縄文〜平安までの通史として描いてください。しかし、授業の進度の問題もありますし、あらゆる時代のあらゆる事象を満遍なく記述することは不可能ですから、どこかの時代に焦点を絞って書くことも必要になってきます。そ…

縄文人は彫りが深くがっしりした体格であったのに、弥生からは彫りが浅い細身の体格へ変わったのでしょうか。

縄文人/弥生人の体格比較などは、発掘された骨格などから復原されていますが、それぞれの時代に列島に暮らしていた人々の平均値が採られているわけではありませんので、統計学的に正確さに欠けるものです。また、比較のために用いられるデータは多く北部九…

古墳時代に至って、次第に人間中心主義的な考え方が強くなってゆくとのことでしたが、古墳寒冷期などで自然の厳しさを痛感し、多少なりとも考えを変えるといったことはなかったのでしょうか。

今後の講義で扱ってゆきますが、自然環境に対する祭祀の重要性が、4世紀頃から復活してきます。典型的なものはときどき授業でも言及している湧水点祭祀、導水祭祀と呼ばれる水辺の祭祀で、地域の耕地を灌漑する水源を共同体首長が祭祀するものです。水源地…

窯業のために大量の樹木が伐採されたとのことですが、多雨の影響で稲作に支障が出ていたのなら、堅果類の採集も重要であったはず。伐採できるだけの樹木があったのでしょうか?

須恵器や土師器の生産に携わっていた工人たちの生活は、考古学分野で次第に解明されつつありますが、薪炭材が不足すれば移動してゆく彼らが窯業の傍ら生産に携わっていたとは考えにくく、上位の政治勢力との繋がりのなかで、他の団体から食物の供給を受けて…

薪炭材を得るために伐採が行われたとありましたが、埴輪や土器の直接の材料となる粘土の採取は、自然環境に何か影響を及ぼしたのでしょうか。

陶邑のような須恵器窯の近くでは、粘土を採掘した坑の遺構が多く残っています。良質の粘土が検出されるまで幾つもの坑を掘り返したあとや、5〜10メートルの深さにわたって粘土を掘り出した坑道などが検出できます。薪炭材の確保のために行われる森林伐採よ…

蒲生君平の時点では、古墳時代に「宮車」があると考えられていたのでしょうか。

考古学的、あるいは文献学的な検証作業の知識・技術が進んでおりませんでしたので、文献に書かれたものを通して古代の遺物を把握するしかなく、奈良時代以前と考えられるものは、その時代のあり方をそのまま過去へ遡らせて考える以外になかったわけです。い…

古墳は、日常的にはどのような存在であったと考えられますか。例えば、ふだん立入などはできたのでしょうか。

古墳の日常的なありようについては、あまりよく分かっていません。講義では詳しく扱っていませんが、前期の前方後円墳などは三段階の墳丘として整序され、前面に葺き石の施された極めて人工的な景観を持っていました。また、前面に多様な木製品を立て並べた…

桃の持つセクシャルなイメージとは、具体的にどのようなものでしょうか。女性的ということですか?

一般には女性の生殖器、あるいは臀部などを連想させる、といわれています。そこから性的イメージ全般を象徴するものとなり、桃を食べると性的能力が回復する、若返るなどともいわれます。不老不死との関わりの起源も、そのような象徴性にあるのでしょう。

前方後円墳は子宮と同じ形であるとの考えについてですが、古墳時代から、女性の身体を切り開いて形を知っていたということでしょうか。

解剖学的知識があったかどうか、すなわち情報として伝わっていたかどうかは分かりませんが、胎児の入っている袋とみなされていたことは確かでしょう。講義でお話ししたのは、前方後円墳自体が子宮とみなされていたということではなく、壺中天という中国の神…

古墳は中国の影響を受けているとのことでしたが、中国にもたくさん存在するのでしょうか。

儒教は、社会の安定化のため階層秩序を重んじますので、その具現化としての厚葬は、支配階層を中心に広がっていました。皇帝をはじめ、王族や貴族たちは壮大な陵墓を築き、そのなかには豪華で豊富な副葬品がみられます。代表的なのは陝西省驪山陵、いわゆる…

古墳は近畿に集中して造営されていますが、あのように巨大なものが6〜7世紀後半にまで作られていたとすると、場所などには困らなかったのでしょうか。 / 現在残っていない古墳は、どのようにして消滅したのでしょうか。

確かに、古墳を造営するためには適切な場所が選ばれていましたので、狭い地域に密集する場合も出てきました。いわゆる古墳群と呼ばれるものです。それらのなかには、墳丘の削平された例もあり、現在の首長にとって必要のなくなった古墳は、破壊されることも…

地域地域のどの程度の階層まで、古墳を造ることができたのでしょうか。

前方後円墳については、基本的に首長墓であると考えられています。同時期、その周辺に円墳や方墳が付随するものもありますが、それは陪塚、すなわち首長の親族や臣下を埋葬したものです。概ねこれらが古墳を造営できた階層、すなわち支配階層です。

前方後円墳の規模の大小をもって較差が形成されているとのことでしたが、なぜ権力を持つ人ほど大きい古墳を持つべきという、権力の強弱と大小のサイズ観が関係を持つようになったのでしょうか。

強大な権力が巨大な建造物を造り出すという営為は、権力誇示の方法として、時代や地域を超越してみることができます。世界中に残っている巨大建造物の大部分は、政治的なものであれ宗教的なものであれ、それを営む主体もしくはそれによって荘厳される何かを…

東北地方にも古墳があるということは、蝦夷のような人々も、多少なりともヤマト王権へ服従していたのでしょうか。

最北端の前方後円墳は、岩手県の胆沢付近にある後期〜終末期の角塚古墳(46メートル)、最大規模の前方後円墳は、宮城県名取市にある中期の雷神山古墳(168メートル)です。後の対蝦夷政策の展開をみてゆくと、これらの前方後円墳が蝦夷らの族長的存在の墳墓…

ヤマト王権による全国的な統一があったのは分かりますが、なぜそこまで拡大できたのか、少々イメージしづらいです。

邪馬台国とヤマト王権を完全に別のものとみてしまうと、確かに唐突すぎる感があります。しかし実際のところは、倭国大乱の時代に統一へ向けての種々の試みがあり、それが時折「倭国王」の形で出現していたとみれば、どうでしょうか。共立された卑弥呼の「邪…

古墳時代の時点で中国とも繋がりがあったのなら、国交をしやすい海沿いの場所が中心にならなかったのはなぜですか。

確かに、北九州などの政治的グループは朝鮮半島や中国大陸との交流が密接でしたが、列島を広範囲に支配するとなると西に偏りすぎ、東側へ勢力を及ぼしづらかったと思われます。その点ヤマトは列島のほぼ中央に位置し、列島内の流通の結節点となって東西の交…

現代の天皇家の先祖は、ヤマト地域の豪族のリーダーだったのですか。

これも後に詳しく扱いますが、当初のヤマト王権は、近畿の幾つかの政治グループが競合して王を輩出していたと考えられています。しかし、これは政治的抗争や場合によっては武力衝突にも発展したため、次第に一系統のグループに王家が限定されてゆく傾向が強…

ヤマト王権の定義がいまひとつよく分かりません。それまでの天皇が交替したのですか、そうではないなら、それまでの天皇は何なのですか?

ヤマト王権以前に、大王も天皇もいません。それゆえに、邪馬台国とヤマト王権が接続するのかしないのか、ということが問題になっているのです。『古事記』や『日本書紀』に出てくる歴代天皇(大王)において、実在が確認できるのは雄略天皇が初めてです。後…