2014-07-14から1日間の記事一覧
1)原則として通史だが、扱う範囲は、世界史選択者の場合授業で説明した飛鳥時代まででよい。日本史選択者は、高校で勉強した院政期前までを対象とすること。2)やはり原則として通史だが、何らかの観点で対象を絞る場合、古代がいかなる時代であったのか…
講義でもお話ししましたが、原則として平安時代をいれながらも、記述としてはかなり削除できると思います。つまり、どの時代をなぜ重視するのか、取捨選択の基準をどう採るのか、そのあたりがきちんと説明できているかどうかをみてみたいのです。3200字程度…
そうですね、天皇はその矛盾をずっと内包してゆきます。高天の原に君臨する天照大神の子孫として、天皇は一般の天神、地祇よりも権威が上だと喧伝されます。しかし実際のところは、神祇信仰の最高の司祭として、天神地祇に国家の安寧や農耕の豊穣を祈念する…
講義でお話ししているとおり、権力がないわけではありませんでした。しかしそれは王権を形成する豪族たちの合意によって保障されていましたので、合議の調整・総括に限定されていたというべきでしょう。しかし、古代を通じて天皇のみが執行できる祭祀・儀礼…
『日本書紀』推古天皇32年(624)冬十月癸卯朔条によると、蘇我馬子は阿倍麻呂らを通じて、蘇我氏の正統性の根拠ともいうべき葛城氏の故地、葛城県を賜与を要求します。それに対し推古は、「大臣は私にとってオヂに当たり、大臣のいうことは何ごとであっても…
これも、近代的価値観に沿った考え方でしょう。これまで講義でお話ししてきた雄略=倭王武や、崇峻、天武=大海人などは、自ら軍陣に身を置いて戦闘を指揮しています。厩戸は即位自体していませんが、物部守屋を討伐する戦いにおいて、四天王を奉じ軍陣を指…
飛鳥時代は、講義でもお話ししているように官制が不明確であり、氏族制から順次官僚制へ移行している情況であるため、正確な人数は把握できません。参考にしうるのは律令官制に規定されている人数ですが、下級職員も含めた中央官の人数は、8000人余りとなっ…
各地域の民衆たちには、生活を保障されるかわりに、共同体の首長へさまざまな形での貢納が要請されていました。それは時代や地域により差異があったと思われますが、中央集権化が進行し税制が全国一律に整備されることで、直接国家による種々の税の賦課が行…
倭国=ヤマト王権は、基本的には、大王家を中心としつつ豪族たちが結集する連合政権ですが、それぞれの豪族が権力闘争、そうして東アジアの危機的な情況のなかで存続をしてゆくためには、大王家に奉仕しその繁栄に貢献しなければならないとの原則はあったは…
改新の詔で示された駅伝制の、実際のスピードを検証することはできないのですが、それをさらに整理して敷かれた律令制の飛駅では、平城京・大宰府間(直線距離で約500キロ)を、4日ほどで移動していることが確認されています。これは、『続日本紀』に記載さ…
コホリの原義は朝鮮語で原野、土地を表す言葉であり、表記も「評」字を用いていました。これが「郡」に変わるのは大宝令制からで、改新制の大評(40里〜31里)・中評(30里〜4里)・小評(3里)の3等級が、大郡(20里〜16里)・上郡(15里〜12里)・中郡…
あれは『多武峯縁起絵巻』で、鎌足を祭神とする談山神社(奈良県桜井市)の縁起絵巻です。暦仁2年(1239)、同社の学僧永済が草案縁起絵を作成しており、現存本はこれをもとにした16世紀中頃以前の写本とみられています。内容的には、鎌足の伝記を主体に、…
あれは「版位(へんい)」というもので、朝庭における列座の位置を示すものです。百官が参列する際、律令制においては、漆で位階の書かれた木製の板が置かれます。しかし、平城京からは石製のものが出土しており、ドラマはこれに基づいてたものと思われます。
藤ノ木古墳からの出土品をはじめ、種々の発掘成果や、最新の研究に基づいていることは確かです。しかし、そのうえで登場人物の個性を際立たせるための潤色はありますね。入鹿の服装や髪型などは、少し突飛かもしれません。
同一人物です。7世紀は未だ漢字表記が安定していないところもありますので、同一人物の名前の書き方が幾つかのパターンで出てしまいます。しかしそうしたブレによって、「子麻呂」がネマロではなくコマロなのだと分かるのです。
年中行事的になされる饗宴や、あるいは外交使節らをもてなす饗応の儀式で、歌舞を披露したものと考えられています。ドラマで登場した「俳優」は、中国から伝来した伎楽のそれでしたが、7世紀にはもっと列島色の濃い芸能が行われていた可能性が高いですね。…
やはりそもそもの内紛が原因で、倉山田家は本宗家に競合する勢力であったからでしょう。ちなみに石川麻呂の家自体は謀叛の疑いにより滅びてしまいますが、弟の連子の家が石川氏へ改姓し、石足・年足・名足らの俊英を輩出して奈良時代に栄えます。また、やは…
中大兄については、鎌足が王族のなかに同志を探していた際、「功名を立つべき哲主」を求めて行き着いた、と書かれています。あくまで改新政府の史観に立って書かれていますので、中大兄を批判する文言はありません。ただし、大王位の競合者である古人大兄や…
『日本書紀』では、この塾は隋へ留学した南淵請安の塾で、「周孔の教」すなわち儒教を講義していたとされています。一方の『藤氏家伝』大織冠伝では、やはり留学をした僧旻の塾で、入鹿や鎌足らが『周易』すなわち『易経』を学んでいたとされています。
そのような説明が多いのですが、大部分は古代史を一部しか知らない人たちの臆説です。エミシという言葉は、『書紀』のなかでも、もともと「強力な人」との肯定的な意味合いで使用されていました。東国や東北は肥沃な地域で、そこで生活している人々は強力な…
恐らく、儀式の場はクーデターのために用意されたもので、実際には三韓の外交使節などは出席していなかったと考えられます。しかし注意したいのは、『書紀』の記述が極めて物語的であること、宮廷で大王の国土平定の神話などを演じていたと思われる俳優など…
実際のところはどうであったのか分かりませんが、舒明や皇極の側近ともいうべき阿倍氏、財政を統括し宮廷の警衛にもネットワークを持っていた石川麻呂を仲間にした時点で、少なくとも宮廷内においては、入鹿を包囲する布陣が出来上がっていたものと思われま…
摩理勢の件は、実はかなり複雑です。蝦夷のリーダーシップに反旗を掲げた彼は、蘇我氏の族人たちが馬子の墓所に集まっているとき、「爰に摩理勢臣、墓所の廬を壊ち、蘇 我の田家に退りて仕へず」との行動に出ます。これは恐らく、古墳時代の首長霊継承祭祀よ…
やはりヤマト王権の外交姿勢として、百済との結びつきが強かったものと思います。馬子の時代には、一時期新羅への征討も計画していますので、これまで干戈を交えてきた、高句麗や新羅との関係は良好ではなかったでしょう。しかし、それらの国々から出身した…
このあたりは解釈が分かれます。現象的には、用明・崇峻の事後処理のために大王位に就いた推古が、例外的に長生きをしてしまったからでしょう。当時はまだ、大王が存命中のまま他者に位を譲るということがありませんでした。また、厩戸王が当時の王族として…
平安時代に聖徳太子の伝記や種々の言説が創られてゆく背景には、まずは法隆寺、四天王寺など、太子による創建伝承を持っている寺院が、自らの権威を高め教線を拡大するために『書紀』などの記述を援用、さらに肥大化させてゆくという点があります。また仏教…