2014-12-09から1日間の記事一覧

いま、聖徳太子の寺院が名乗っている聖徳宗という宗派は、どのような歴史を持つものですか。

戦後の1950年、法相宗の本山のひとつであった法隆寺が独立し、聖徳太子を開祖とする一宗派を構築したものです。太子関連寺院の法輪寺、法起寺、中宮寺などがその傘下に入りました。厩戸王自身は宗派を構築する考えなど持っていませんでしたので、後世の人々…

偉人のエピソードがさまざまに誇張されることはよくあると思うのですが、それについて庶民はどのように思っていたか、というようなことは分かっているのでしょうか。

聖徳太子関連寺院の周辺では、庶民層にも太子信仰が存在した可能性はあります。しかし、『日本書紀』に語られているようなイメージは、文字の読めない庶民層に伝わるルートがありません。彼らの意識するところではなかったと考えられます。

尸解仙の史料が、キリストの復活に似ているように感じます。聖書が影響を与えた、といったことはないのでしょうか。

授業で紹介した『神仙伝』は4世紀頃の成立で、キリスト教が中国へ伝来する遥か以前のものです。よって、直接キリスト教の影響を受けた、ということは考えられません。しかし、この時期に成立した中国の志怪小説(怪異な出来事を収録した「史書」)のなかに…

仏教公伝から崇仏論争にかけての史料ですが、神道と仏教とは明確に区別されているように思います。それにもかかわらず、なぜこのあと神仏習合のように、二つが混じってゆくことが許容されたのでしょうか。

日本で最初に用いられた神仏習合の論理は、「神身離脱」というものです。これは、仏教が神を「前世に報いを受けた苦しみの身」と捉え、仏教的作善を施すことでそれより解脱させるという形式でした。中国で生まれた六朝の当初は、実際に対象となった祠廟など…

世界にはさまざまな宗教があったと思いますが、なぜ儒教や佛教が広く支持されたのでしょうか。それともアジアにはその2つの宗教しか存在しなかったのでしょうか。

もちろん、東アジアの宗教は儒教・仏教だけではありません。この2つが重視されたのは、やはり中国王朝の文化を代弁する存在であったからです。儒教は国家を運営し支配するための理念、仏教は国家を守護する神秘的な力として、中国王朝と冊封関係、外交関係…

王子や王女は、その養育された氏族や地域の名を持つとのことですが、すると「舎人親王」などもそうなのでしょうか。親王なのに舎人の名を持つのは、貶められているのでしょうか。

そうですね、よく分かっていないのですが、他田舎人氏か金刺舎人氏に養育された可能性はあると思います。両者は多く信濃国に分布しますが、自身が美濃に湯沐=封戸を持っていた天武は、壬申の乱の際に東国へ脱出して美濃不破へ本拠を置き、東国の兵を動員し…

聴政が君主の美徳と考えられるようになったのはなぜですか。

東アジアにおける王権は、専制君主的性質を持つ王や皇帝を、貴族層たる士大夫が牽制・抑制するという歴史のなかで育まれてきました。王・皇帝の権力ばかりが肥大化してゆくと、国家は私物化され、そのパーソナリティーや能力によって命運が左右されてしまう…

聖徳太子が実在するかは不明だったとしても、モデルになった厩戸王がなぜ神聖化の対象として選ばれたのか非常に不思議に思った。 / 天皇でもない厩戸王が、なぜ神聖化の対象とされたのか。

実在の厩戸王が仏教興隆に功績を挙げたことは、法隆寺や四天王寺をはじめとする幾つかの寺院、中宮寺や広隆寺などの関連寺院から明らかです。彼の主催する上宮王家に瓦の工房があり、その他の寺院へ瓦を提供したことも、考古学的に明らかになっています。ま…

学校教育に用いる教科書の内容と研究との間には乖離がありますが、その教科書の内容は研究の現状を認識したうえで、故意に「選択していない」のでしょうか。

教科書はそれなりに地位のある研究者が編纂していますので、研究の現状を「知らない」ということはありません。しかし、弁護をしておくと、彼らの考え方がストレートに反映されるわけではなく、出版社の意向や文科省の審査が絡んできますので、さまざまな抑…

もし聖徳太子の存在がないとされれば、どこまで「歴史」は変わるのでしょうか。

あまり変わらないかもしれませんが、後の時代における太子への言及の意味が違ってきます。古代国家の構築したイメージが平安時代を通じて肥大化し、中世・近世・近代と国家発揚に用いられてきた。そのそもそもの形が虚構だったというのは、皮肉という以外に…

北條先生は、聖徳太子については教科書から削除すべきと考えているということですか?

授業でも述べましたが、書き方を変えればよいだけです。『日本書紀』において厩戸が聖徳として描かれたことは事実ですので、「実際の厩戸王はこれこれであったが、『日本書紀』は中国文化に熟達した聖賢として彼を祭り上げて「聖徳」と呼び、日本の文明的先…

学術的根拠に基づいて聖徳太子の存在を肯定的に論じた本はありますか?

研究の現状は、『日本書紀』に載ることを必ずしも事実とは認めない、ではどこまでが事実でどこからが虚飾なのかを、細かく議論する段階となっています。「学術的」見地から、「聖徳太子」の実在を肯定する見解は、その意味では存在しません。程度の差、とい…

『日本書紀』を叙述する際に「潤色」があったというのは、間違えてしまったのでしょうか。もしそうなら、例えば中大兄「皇子」を、なぜ「王」と表記しなかったのでしょうか。

間違いがあったわけではなく、日本の国王が単なる「王」ではなく「天皇」であることを標榜するため、神話的存在である神武天皇から「天皇」「皇」の字を用いているのです。日本で最初に「天皇」を名乗るのは天武ですが、当時は唐や新羅でも天皇号が用いられ…

『日本書紀』で聖徳太子がまつりあげられる意味は何だったのか。蘇我氏が実質的に政権を担うという記述だと、ナショナル・ヒストリーにどんな不都合が生じてしまうのでしょうか?

『日本書紀』は、大化改新で政権を奪取した中大兄王、のちの天智天皇の政権を正統とする視点から書かれています(壬申の乱でクーデターを起こした天武政権も、天智の遺志を受け継ぐことを標榜しました)。つまり、乙巳の変で討ち滅ぼされた蘇我氏が正統とし…

歴史書の作成=文明国であることの証拠とのことでしたが、その歴史書の内容が、実際の出来事と一致するかどうかは、とくに問題にはならなかったのでしょうか。

神話や伝承は、時代を通じ、その当時の価値観や考え方の相違を反映して、意味や内容を変化させてゆきます。すなわち、常に現在主義的なのだといえるかもしれません。東アジアの歴史記述は殷代から始まりますが、卜占に関連して、王の一挙手一投足が記録され…

唯一の史料である『古事記』『日本書紀』の信頼性が低いとすれば、聖徳太子だけではなく、その時代の史実とされていることすべてが間違っているかもしれないということでしょうか。

上にも書きましたが、必ずしもそうはなりません。授業で示したように、『日本書紀』を批判的に用いることで明らかになる事実もあるのです。例えば、崇仏論争は漢籍や仏典の引き写しとして、『日本書紀』の描く物語は虚構であることが判明しています。しかし…

『日本書紀』のように大きな問題のある文献が多いなかで、それでも当時のことを知るためには文献を頼り、批判することもまた文献に依拠するとすれば、歴史の真実を見出すことは可能なのかという疑問が浮かびます。

要するに、何を「史実」とするかという問題です。例えば、ぼくが批判的に行った、「聖徳太子は厩戸王を誇張的に描いたものだ」という指摘も、史実を叙述したことになるわけです。例えば『日本書紀』にしても、中国や朝鮮の史料、出土文字資料や同時代史料と…