2014-12-16から1日間の記事一覧
まずは肖像画自体に付与されてきたさまざまの伝承が参照されますが、それと肖像画自体に埋め込まれた情報が齟齬を来すときに、研究者による多様な検証が行われます。これまで足利尊氏像とされてきた騎馬武者像は、松平定信の編纂した『集古十種』に尊氏像と…
天皇はあくまで日本国内でのみ権威を持つものですが、「日本国王」は明の冊封体制が構築された東アジア世界において公認された国位です。その世界においては、天皇より義満の方が地位が上ということになります。義満は明との交渉を開始したとき、懐良親王が…
斯波義将については、恐らく伝聞によるものでしょう。その背景には満済と同じく、儀礼そのものよりも「日本国王」という称号、建前であっても「臣属」するという形式に対する違和感、抵抗感があり、印象が肥大化していったものと思われます。満済自身は、義…
天皇(厳密には院政)が権威を失っていたとしたら、南北朝の問題も起こりえませんし、征夷大将軍の位を得て幕府を開くという方途も意味をなしません。当時の価値の源泉も未だ天皇にあり、その主宰のもとでこそ、義満と室町幕府は権力を構築できたのです。な…
明の使者の言い分も聞き、情報も得ていたので、義満の行動は意図的であったと思われます。やはり、盲目的な臣属をよしとしなかったのでしょう。建文帝は、自らの政治的基盤を堅固にするため、そんな義満に妥協して彼を国王として認めようとします。しかし、…
明使により国書が読み上げられるなら、それは中国語です。実際に義満が読んだのなら、日本語で読んだのでしょう。当時の日本において、宋代中国と盛んに交流してきた五山の禅僧は最高の知識人であり、中国語と中国文化に通じた幕府の実務官僚としても活動し…
義満の朝貢の場合は、恐らく、外交実務を担当した五山の禅僧が先例を調べ、博多商人などからも昨今の情報を得ていたものと考えられます。商人の側には、中国や朝鮮半島との独自のネットワークが存在しましたので、明に対する他国の朝貢の情報などももたらさ…
実は、日本が中国王朝に通交するということ自体、9世紀の遣唐使停止から500年余りも行われていなかったので、非常に画期的なことでした。その間に民族意識も昂揚してきていたので、歴史を知る貴族、知識人層の間でも、中国王朝に臣属することをよしとしない…
明のもたらした大統暦は、元において制定された授時暦を改名したものでした。暦の制定と交付は天皇・朝廷の役割でしたが、義満の受け取った大統暦は採用されず、貞享2年(1685)における渋川春海の貞享暦(大和暦)への改定まで、800年余りに渡って唐の宣明…
東アジアの外交においては、古代から中国が帝国として君臨し、外交を結ぶ周辺諸国は、朝貢して属国となるか絶域の外国として扱われるか、どちらかでした。この伝統は、相次ぐ征服王朝の出現や欧米のアジア進出によって崩れてゆき、周辺諸国それぞれの自尊意…
講義でも述べましたが、戦後教育は戦前・戦中の皇国教育を民主教育へ転換するところから始まりましたので、明確な思想統制は行われていません。しかし国民国家の歴史教育である以上は、ナショナル・ヒストリーの醸成に力が注がれていることも、また否定でき…
そんなことはありません、北條氏もしっかり逆賊として扱われています。承久の乱で3上皇を配流にした義時などは、その代表といえるでしょう。そもそも北條氏は、幕府政治の制度的確立を達成した泰時、時頼以外は、多く源氏将軍を蔑ろにした存在として、武家…
基本的に、歴史学においては「史料は嘘をつくものである」ことが前提で、そこから事実を追究する方法が「史料批判」と呼ばれるものです。非常に個別的で複雑な方法であるため、なかなか一言では言い表せないスキルですが、根本となる方法は情報の渉猟・網羅…
〈歴史修正主義(historical revisionism)〉とは、表面的には、支配的な歴史の物語について異議申し立てを行い、隠蔽された事実性を暴露して修正をなすことですが、強固なイデオロギー性を批判する〈客観性〉を装っていながら、内実は極めて政治的、恣意的…
レジュメに書いたとおり、選択ではなく記述形式です。よく読んで内容を理解してください。
何らかの参考文献から意見を引用するとき、誰の何の本によった、と明記していただければ結構です。つまり、自分の意見と他者の意見、事実と意見をしっかり区別できているかどうかが問題です。