2014-07-01から1ヶ月間の記事一覧

レポートで扱おうとしていたテーマのひとつに、中国の文字創出伝説がありました。『淮南子』にいう「蒼頡が文字を作ると、天が穀物を降らせた」という記述と、「神農の時代に穀物が降って、彼がそれを人々に広めた」との神話がありますが、穀物が降る点では同じ表現なのに、ニュアンスがまったく異なるように思います。この相違は何なのでしょうか。

神農の方は、いわゆる天恵と位置づけられる考え方ですね。あるいは穂落神のように、あらゆるものの価値の源泉が天にある、ということを表明する言説です。一方の『淮南子』本経訓の内容は簡略で、高誘注によらなければ解釈の難しいところがあるのですが、文…

日本には多くの火山があり、地震も頻発していますが、それによる都市崩壊の伝承は残っていないのでしょうか。残っていないとすれば、やはり水の神聖性が重要な意味を持っているのでしょうか。

実はやはり、噴火によって都邑が潰滅するという伝承はあまりみられないのです。地震については、授業で扱った『今昔物語集』の記述も地震の色彩が濃いですし、別府の瓜生島や徳島の御瓶千軒なども地震による水没で、多少は確認することができます。しかし、…

仏像から涙や血などが流れ出ると不吉なことが起こる、という内容の物語を知っているような気がするのですが、なかなか思い出せません。もしご存知でしたら教えてください。

授業で一言だけ触れましたが、仏像霊験譚の形式ですね。中国の南北朝期には、仏像が発汗して凶事を知らせる類の言説が多く作られましたが、これが後に涙や血へ姿を変えてゆくようです。善導『往生礼讃』に書かれる三品懺悔の手法には、目から涙を流して行う…

三陸地方の伝承は、生き残った男が死者を悼むことを記していますが、他の洪水譚にそれがみられないのはなぜでしょうか。

そこに主題がないからだ、としかいえません。また中国では、少なくとも儒教の建前的な立場では、非業の死を遂げた人間への祭祀は行わないことになっているのです。こうしたことが宗教の抱える喫緊の課題となってゆくのは南北朝のことで、主に仏教が担い手と…

「天地始之事」に出てくる足の弱い兄は、単なる「初子の障がい」ではなく、エサウのかかとを掴んでうまれてきたヤコブを髣髴とさせます。これはまったく関連のないことなのでしょうか。

確かに関連はあるのかもしれませんが、「天地始之事」に出てくる兄弟には対立関係はなく、いわゆる愚兄賢弟の枠組みに当てはまりません。また、エサウは野人のような存在ですから、「天地始之事」に登場する兄とはかなり印象が違います。全体としてはノアの…

五島列島の隠れキリシタンの神話「天地始之事」には、「前界の地獄」が出てきます。宣教師たちは煉獄の概念を利用し、信者を増やしたと聞いたことがあるのですが、この記述にもそうした彼らの思惑は表れているのでしょうか。

これは少し、現代語訳が不正確でした。「べんぼう」は恐らくLimbo、すなわち辺獄のことを指すと思われます。洗礼を受けなかったものが原罪のうちに堕ち、しかし永遠の地獄であるInfernoとは区別されるものです。この考え方によれば、キリスト教的な回心を得…

日本の『今昔物語集』の事例には儒教的な色彩が濃厚で、朝鮮半島の文化との関係性を示唆されていましたが、その頃の半島の儒教は、日本列島へ影響を与えられるほどに盛んだったのでしょうか。

確かに、その点は充分考慮しなくてはなりません。実は、この講義のもとになった論文では、『今昔』の都邑水没譚を、遼代説話世界の影響を受けたものかもしれないと展望していました。近年は、院政期の説話世界が、遼・非濁の『三宝感応要略録』などに大きな…

災害の予兆で、これまでは石像の目が赤くなるという事例が多かったですが、今度は顔自体が赤くなる話が出て来ました。個人的には、顔が赤くなるのは怒りの表象ではないかと思うのですが、どうでしょうか。

確かに、それはありえますね。下の方でも書きましたが、石像の顔が赤くなるという系統の話は、仏像霊験譚の影響を受けています。亀や獅子には、顔全体が赤くなる事例はなく、神像や仏像の類になって、このような表象が出てくるわけですね。このジャンルにお…

兄妹婚姻型に対して、「姉弟」の婚姻は存在しないのですか。

あります。例えば、やはり河南省の西華県で採録された伏羲・女媧の伝承として、これお姉・弟と語っている事例があります。「人祖爺(伏羲)と人祖婆(女媧)は夫婦ではなく、実は姉弟である。姉弟が石亀に昼ご飯の餅を与えると、石亀は、「私の目が赤くなっ…

災害から生き残った人が、罪悪感を感じるということがよく分かりません。普通、災害を避けられたことは幸運だと思うのではありませんか。

冒頭の単元で、「サバイバーズ・ギルト」のお話をしたと思います。これは事故や災害の際、自分の大切な存在を失ったひと、肉親を失った人たちにみられる心理状態です。自分ではなく、なぜ他の人が死んでしまったのか。とくに、子供や妹、弟、恋人など、自分…

レポートについて、いろいろ変更が出たので箇条書きにしてまとめておきます。

1)原則として通史だが、扱う範囲は、世界史選択者の場合授業で説明した飛鳥時代まででよい。日本史選択者は、高校で勉強した院政期前までを対象とすること。2)やはり原則として通史だが、何らかの観点で対象を絞る場合、古代がいかなる時代であったのか…

日本史専攻者は、原則として平安時代まで入れてレポートを書きなさいとのことですが、通史の場合もそうしなければいけないのですか。

講義でもお話ししましたが、原則として平安時代をいれながらも、記述としてはかなり削除できると思います。つまり、どの時代をなぜ重視するのか、取捨選択の基準をどう採るのか、そのあたりがきちんと説明できているかどうかをみてみたいのです。3200字程度…

現御神になってゆく天皇に対し、『書紀』に「天神地祇」の言葉があるのは矛盾しているのではないか。

そうですね、天皇はその矛盾をずっと内包してゆきます。高天の原に君臨する天照大神の子孫として、天皇は一般の天神、地祇よりも権威が上だと喧伝されます。しかし実際のところは、神祇信仰の最高の司祭として、天神地祇に国家の安寧や農耕の豊穣を祈念する…

日本の天皇は古代において、権力はなかったのですか。なぜ天皇が必要だったのでしょうか。後の幕府は、なぜ天皇を廃止しなかったのですか。 / 天皇制が長く続いている要因とは何ですか。

講義でお話ししているとおり、権力がないわけではありませんでした。しかしそれは王権を形成する豪族たちの合意によって保障されていましたので、合議の調整・総括に限定されていたというべきでしょう。しかし、古代を通じて天皇のみが執行できる祭祀・儀礼…

古代は女帝が多く輩出されますが、それは男性に都合のよいように利用されるだけだったのでしょうか。それとも独自に政治を行える存在だったのですか。 / 推古は蘇我氏の都合のよい大王として即位させられたと思っていましたが、どうなのでしょうか。

『日本書紀』推古天皇32年(624)冬十月癸卯朔条によると、蘇我馬子は阿倍麻呂らを通じて、蘇我氏の正統性の根拠ともいうべき葛城氏の故地、葛城県を賜与を要求します。それに対し推古は、「大臣は私にとってオヂに当たり、大臣のいうことは何ごとであっても…

中大兄王子がしばらく王位に即けなかったのは、「人殺し」に対する忌避感があったためと聞いたことがありますが、実際はどうなのでしょうか。

これも、近代的価値観に沿った考え方でしょう。これまで講義でお話ししてきた雄略=倭王武や、崇峻、天武=大海人などは、自ら軍陣に身を置いて戦闘を指揮しています。厩戸は即位自体していませんが、物部守屋を討伐する戦いにおいて、四天王を奉じ軍陣を指…

この時代の官僚たちは、どのくらいいたと考えられるのでしょうか。

飛鳥時代は、講義でもお話ししているように官制が不明確であり、氏族制から順次官僚制へ移行している情況であるため、正確な人数は把握できません。参考にしうるのは律令官制に規定されている人数ですが、下級職員も含めた中央官の人数は、8000人余りとなっ…

大化改新を契機に中央集権が進んでゆくなか、結局農民の生活はどのようになっていったのでしょうか。 / 乙巳の変は中央では大きな事件だったでしょうが、地方の人々にはあまり影響がなかったのではないかと思います。

各地域の民衆たちには、生活を保障されるかわりに、共同体の首長へさまざまな形での貢納が要請されていました。それは時代や地域により差異があったと思われますが、中央集権化が進行し税制が全国一律に整備されることで、直接国家による種々の税の賦課が行…

すべての氏族・豪族を排斥して大王家のみに権力が集中する形にするのは、現実的に難しいと思います。舒明の牽制や乙巳の変は、蘇我氏のみに止まらず、各氏族へ向けられたものであった可能性はないでしょうか。

倭国=ヤマト王権は、基本的には、大王家を中心としつつ豪族たちが結集する連合政権ですが、それぞれの豪族が権力闘争、そうして東アジアの危機的な情況のなかで存続をしてゆくためには、大王家に奉仕しその繁栄に貢献しなければならないとの原則はあったは…

改新の詔に示された駅伝・伝馬制では、どのくらいのスピードで情報を伝えることができたのでしょうか。

改新の詔で示された駅伝制の、実際のスピードを検証することはできないのですが、それをさらに整理して敷かれた律令制の飛駅では、平城京・大宰府間(直線距離で約500キロ)を、4日ほどで移動していることが確認されています。これは、『続日本紀』に記載さ…

コホリの表記が「評」から「郡」に変わったのは、そもそもなぜなのでしょうか。 / コホリの話ですが、なぜ50戸なのでしょうか。

コホリの原義は朝鮮語で原野、土地を表す言葉であり、表記も「評」字を用いていました。これが「郡」に変わるのは大宝令制からで、改新制の大評(40里〜31里)・中評(30里〜4里)・小評(3里)の3等級が、大郡(20里〜16里)・上郡(15里〜12里)・中郡…

中大兄らによって、入鹿の首が飛ばされている絵をみたことがあります。あの絵は創作なのでしょうか。

あれは『多武峯縁起絵巻』で、鎌足を祭神とする談山神社(奈良県桜井市)の縁起絵巻です。暦仁2年(1239)、同社の学僧永済が草案縁起絵を作成しており、現存本はこれをもとにした16世紀中頃以前の写本とみられています。内容的には、鎌足の伝記を主体に、…

「大化改新」に関するテレビドラマのなかで、儀式の場に「新羅」「百済」など国名の書かれた石が立っていました。外国人と行う行事には、専用の場所があるのでしょうか。

あれは「版位(へんい)」というもので、朝庭における列座の位置を示すものです。百官が参列する際、律令制においては、漆で位階の書かれた木製の板が置かれます。しかし、平城京からは石製のものが出土しており、ドラマはこれに基づいてたものと思われます。

「大化改新」に関するテレビドラマですが、再現されていた服装などには、どれくらい脚色されているのでしょうか。

藤ノ木古墳からの出土品をはじめ、種々の発掘成果や、最新の研究に基づいていることは確かです。しかし、そのうえで登場人物の個性を際立たせるための潤色はありますね。入鹿の服装や髪型などは、少し突飛かもしれません。

乙巳の変に関する『日本書紀』の記述ですが、「古麻呂」「子麻呂」と別表記で書かれているのは同一人物ですか。表記が異なるのは、何か意味があるのでしょうか。

同一人物です。7世紀は未だ漢字表記が安定していないところもありますので、同一人物の名前の書き方が幾つかのパターンで出てしまいます。しかしそうしたブレによって、「子麻呂」がネマロではなくコマロなのだと分かるのです。

宮廷の俳優たちですが、ふだんは何をしていた人たちなのでしょうか。

年中行事的になされる饗宴や、あるいは外交使節らをもてなす饗応の儀式で、歌舞を披露したものと考えられています。ドラマで登場した「俳優」は、中国から伝来した伎楽のそれでしたが、7世紀にはもっと列島色の濃い芸能が行われていた可能性が高いですね。…

蘇我倉山田石川麻呂の家系は、乙巳の変の後に残りますが、結局は力を失ってしまいます。どうしてそのようになるまで入鹿と対立し、乙巳の変に荷担したのでしょうか。

やはりそもそもの内紛が原因で、倉山田家は本宗家に競合する勢力であったからでしょう。ちなみに石川麻呂の家自体は謀叛の疑いにより滅びてしまいますが、弟の連子の家が石川氏へ改姓し、石足・年足・名足らの俊英を輩出して奈良時代に栄えます。また、やは…

中大兄王子は鎌足によってクーデター勢力に引き入れられたとのことですが、中大兄自身は蘇我氏に対してどのような印象を持っていたのでしょうか。 / 以前に、中大兄は冷酷な人物だったが、鎌足だけは信用していたとの話を聞いたことがあります。実際に『日本書紀』に、そのような記述があるのでしょうか。

中大兄については、鎌足が王族のなかに同志を探していた際、「功名を立つべき哲主」を求めて行き着いた、と書かれています。あくまで改新政府の史観に立って書かれていますので、中大兄を批判する文言はありません。ただし、大王位の競合者である古人大兄や…

中臣鎌足と蘇我入鹿がともに学んでいた塾では、みな何を勉強していたのですか。

『日本書紀』では、この塾は隋へ留学した南淵請安の塾で、「周孔の教」すなわち儒教を講義していたとされています。一方の『藤氏家伝』大織冠伝では、やはり留学をした僧旻の塾で、入鹿や鎌足らが『周易』すなわち『易経』を学んでいたとされています。

以前、蘇我氏に付されている「入鹿」「蝦夷」といった名前は、実名ではなく、『書紀』を記した人の悪意によるものだと聞いたことがありますが、本当でしょうか。

そのような説明が多いのですが、大部分は古代史を一部しか知らない人たちの臆説です。エミシという言葉は、『書紀』のなかでも、もともと「強力な人」との肯定的な意味合いで使用されていました。東国や東北は肥沃な地域で、そこで生活している人々は強力な…