2015-05-01から1日間の記事一覧

光明子と葛城王が異父兄弟ということは、不比等の側室?が他の男性とも関係があったということでしょうか?

側室というより、不比等の後妻ですね。かつて美努王に嫁していた県犬養宿禰三千代がその人物で、大宝元年(701)には不比等との間に光明子が生まれていますので、少なくともその頃までには美努王のもとを去っていたと考えられます。三千代は15歳で出仕し、草…

聖武天皇には障害があったのではないか、との説を以前に読んだことがあります。業病に先天的障害が含まれることはありましたか。

残念なことですが、確かに「不具」(現在は差別語です)が業病と同じ枠組みで語られることもありました。前世で悪業をなしたために、「満足な身体」では生まれてこなかったということですね。さらに注意をしたいのは、本来仏教では個々の生命の行為の報いは…

P4の◎9には「湯薬」という語句があるが、当時の薬は現在の漢方のようなものと考えていいのだろうか。また、製法に関する史料はあるのだろうか。

これについては次回以降、おいおい話をしてゆきます。

◎11に、100歳以上の人民を顕彰する命令があったが、そもそも天然痘が流行しているこの時期に、そこまで生きていられる人がいたのだろうか。

長寿者の褒賞を行うことが天皇の徳の喧伝になるわけですが、対象が何歳であるかは本質的な意味を持たないのです。なお、奈良時代に百歳に到達した庶民は時折あったようです。例えば、宝亀4年(773)の太政官が民部省に下した官符(『大日本古文書』21-283)…

天然痘やハンセン病にかかって亡くなった人は、どのように埋葬されたのでしょうか。

残念ながらその記録は残っていません。高位の人物については、通常と同じように喪葬が行われています。問題は庶民レベルの大量死ですが、火葬は一般的ではありませんし、通常の遺棄葬ですと、不衛生な情況を助長することになります。恐らく、どこかにまとめ…

疫病に感染するかどうかは、当時は運のようなものだったのでしょうか。あるいは、何か必然的な理由は見出せるのでしょうか。

先日の授業でも話をしましたが、やはり衛生的な理由や、飢饉その他による疲弊も大きな原因と思います。いまでもそうですが、身心が健康であれば、人間は病に対してもかなりの抵抗力を発揮するものです。感染力の強い疫病が流行した場合は、やはり身心の気力…

天然痘の流行に際し、神祇信仰の無力に対して仏教を持ち上げたのは、朝廷内で仏教勢力が力を持っていたためでしょうか。

唐から帰国した道慈、そのあとに続く玄纊、良弁などが、宮廷に最新の仏教思想を講説していたことは確かです。7世紀以来、仏教は宗教であるとともに外交の手段であり、最新の知識・技術を包括した文化としての性格を持っていましたので、支配層がこれに急速…

疫神自体を饗応するという祭祀のあり方は新鮮でした。これも八百万の神を敬うからでしょうか。

アニミズムの神霊は、概ね人間に対し、守護もすれば災厄も及ぼすという両義性を持っています。祭祀のあり方が、その両極端の反応を分ける。すなわち同じ神格が、守護神にも祟り神にもなるわけです。例えば皇祖神であるアマテラスは、古代では、天皇に対し最…

道饗祭などの疫神祭祀は、都を守るための宗教的措置ということで、境界を守る神に祈願するとの説があるそうですが、それに類似したものは他にもありますか。

例えば大殿祭ですが、天皇が日常的に起居する大殿の神格化=屋船命、神祇官西院に奉祀される大宮の神格化=大宮売命に対し、祝福の言葉=ホカヒと散酒・散米をもって活性化し、大殿内に邪なものが徘徊しないよう守護を祈る内容になっています。構造としては…

〈夷病〉などという概念が生じたとき、当時の渡来人たちが虐殺の対象になるといったことはなかったのでしょうか。

記録としては残っていません。恐らく民間レベルでは、近代ほど渡来系の人々に対する忌避感は強くなかったのではないかと思います。何世代にも通じて波状的に列島に定着していますので、とくに近畿や西日本は半島との繋がりが深いですし、東国でも、百済滅亡…

天平期の流行について、新羅側ではどのような認識を持っていたのでしょう。新羅には流行に関する記録は残っていないのでしょうか。

『三国史記』などの記述は極めて簡略なので、新羅社会がどのような情況だったのかは分かりません。ただ、聖徳王の治世下には飢饉や地震など天変地異が相次いだとの記録があり、王自身も治世36年(737年=天平9年)の2月に亡くなっています。天然痘の流行と…

「夷」という字はエビスと読むそうですが、エビスというと神様や幸運のイメージがあるので意外です。

エミシからエビスに転訛したもので、文字どおりの夷狄、外敵、辺境の人々、といった意味ですね。『日本書紀』などをみると、元来は強力な男といった、必ずしもマイナスのイメージばかりではなかったようです。中国で東方の蛮族を表す漢字「夷」が当てはめら…

流行病を外敵起源とする発想が中国から直接受け継がれたといえる史料は、まったく存在しないのでしょうか。 / こうした発想は、現代にも影響を与えているのでしょうか。

前回紹介した文献は確実に日本へ将来されていますので、可能性は高いだろうと思います。そうした認識を持った渡来人が数多く入ってきていた、ということも考えられます。ただし、外部から邪なモノが入ってくるのを防がなければならないといった心性は、恐ら…