2015-05-29から1日間の記事一覧
菅原道真の場合は、前後の情況から考えると、より精神的なものが大きかったかもしれません。いわゆる怨霊信仰、御霊信仰は、長岡遷都と藤原種継暗殺に関わる早良親王の自害によって、宮廷社会で急激に発達します。その「緊張感」は、奈良時代の比ではなかっ…
これからの授業で扱いますので、少し先走って書いてしまうことになりますが、実は南北朝末期の中国では、疫病をもたらす鬼霊は非業の死を遂げたものの霊だとみなされていたのです。すなわち、六朝の文献を読んで中国化を進めていた支配層ほど、天然痘と鬼霊…
当時の藤原氏のメンバーからすると、光明子の意向は大きいのではないかと思います。情況証拠だけで臆説を積み重ねてゆくと単なる陰謀説になってしまいますが、しかし、すでに藤原仲麻呂も出身しており32歳になっていますので、彼が実際に指揮を執った可能性…
やはり、武智麻呂が首班的な位置を占めていたためと思われます。長屋王体制の後期には、彼の文学・政治サロンである作宝楼に対して、武智麻呂は習宜別業を持ち、多くの文人や官吏たちをそのもとに結集していました。四子のなかでも、武智麻呂が長屋王のライ…
未だ仏教文化が充分に浸透し大衆化していませんので、日常生活レベルで目的の細分化した経典が使用されるには至っていません。しかし、いわゆる念持仏の類は存在したようですので、陀羅尼等の簡単な経典を読誦していたことはあったでしょう。また、富裕な貴…
すべての僧侶が、というわけではありませんが、当時総合科学であった仏教の知識のなかに、医術のそれがあったことは確かです。例えば、中国から渡って戒律を伝えた鑑真は、脚気治療の処方を持っていたことが、『医心方』から分かっています。
もちろん、 アジアで龍蛇が神として広く信仰された、ということが理由のひとつです。しかし、これから順々に述べてゆきますが、病治療に蛇などが用いられたのは、医術などが誕生してゆくレベルでもっと直接的な原因があるのです。
前近代社会においては、現代より呪術的価値観が広く浸透していたと思われますが、もちろん、それを疑う人もいたでしょう。奈良時代随一の知識人である吉備真備は、その家訓『私教類聚』に、中国の『顔氏家訓』を引用しながら、卜占や呪術をあまり信用しては…
そうですね。一番気になるのは、61番、外従五位下の「某姓ム甲」でしょう。これは発掘によるものではなく、『唐招提寺文書』に残っている「家屋資財請返解案」によるもの。ム甲の父親は国司を務めた裕福な人物だったらしく、左京七条一坊に1区画、右京七条…
なかなか当時の王族で比較対照になる史料がない(一般氏族出身で皇后になった人がいない)ので分かりませんが、確かに後宮へ出仕するという時点で、家や氏族を背負って王権へ奉仕する認識であることは確かですね。「光明子」という名前は『金光明最勝王経』…