2015-06-22から1日間の記事一覧
例えば、仙台市の郡山遺跡穵期官衙施設です。時代としては7世紀半ばから末年の施設で、すなわち阿倍比羅夫の東北経略とほぼ同時期ということになります。規模的には律令制下の郡衙に近いものですが、後の陸奥国府の前身のようなもので、当時のヤマト王権に…
中国的な皇帝は、四方に北狄・東夷・南蛮・西戎の異民族を抱え、これを徳治によって文明化してゆく建前を持っていました。いいかえれば、蛮族を従えている者こそが皇帝だったのです。倭は、中国や朝鮮諸国に対してそうした建前を作り出すため、蝦夷や隼人と…
当時の国際情勢のなかで、中国化しなければ諸国との競合のなかで置いてゆかれてしまう、との危機感が強かったものと思われます。その点、ある意味では、現在よりもよほど朝鮮諸国、中国と密接に結びついた政治意識のなかで、王朝が経営されていたものと思わ…
律令の規定では、戸籍は諸国において3部作成され、それぞれ当国、民部省、中務省に保管されました。これらの官司が整備されていなかった天智朝段階で、どこに保管されていたかは分かりませんが、恐らくは近江朝廷のどこかに管理されていたのでしょう。永久…
百済王家の子孫を標榜する人々がいます。日本に人質として送られてきていた百済義慈王の子息のうち、豊璋は復興百済王朝の王となり、白村江の戦いの後に唐に捕縛され流罪となりますが、日本に残った禅広王が「百済王」を賜姓され百済王氏の始祖となります。…
まったく見当がつきませんが、新羅との連合軍で攻めてくる形となれば、かなり危機的であったと思います。朝鮮半島に近い九州や中国地方、北陸地方などに拠点が作られれば、長期にわたる戦闘になった可能性があります。当時の政府が実際に「リアルな」危機感…
一般的な説明の仕方としては、外敵の存在を強調することで国内の分裂をまとめる、ということです。明治の征韓論もしかりですが、ナチスのヘルマン・ゲーリングなどは、「国民は戦争を望まない。しかし決めるのは指導者で、国民を引きずり込むのは実に簡単だ…
蘇我氏は渡来系氏族を束ねている立場ですので、親百済的でなかったというわけではありません。実際、蘇我氏の建立した飛鳥寺は、百済の王興寺との共通点が多く、実際に百済からの技術者が渡来して造営したものと想定されています。よって問題は、なぜ斉明王…
乙巳の変ののちは、大王位継承をめぐってやや悶着のあったらしいことが、『書紀』に語られています。皇極は当初、位を中大兄に譲ろうとしますが、「年長の有資格者として古人大兄・軽皇子がいる」との鎌足の助言を受けた中大兄は、これを辞退します。古人大…
講義でもお話ししましたが、蘇我氏はほぼ山背大兄を後援しており、田村皇子とは政治的に対立していました。そのなかで蝦夷が、朝廷を構成する他の派閥との協調を保つべく、田村派に妥協したのです。その結果蘇我氏内に紛争が生じたため、入鹿は山背大兄を排…
蘇我馬子と同時代の王族で、推古大王と密接な関係にあり、政治を主導する説得力のあったひとが、厩戸王以外にいなかったのでしょう。また彼は、法隆寺をはじめとして、王族としては初めて本格的な崇仏を行っていましたので、仏教界においてかなり早くから尊…
「個人の感想で歴史をみても仕方ない」という発言をしましたっけ。記憶にないのですが、誤解を与えるような説明をしたのでしょうね。『ヒストリア』に関して批判したのは、『日本書紀』の記述とそれから考察される「史実」、里中満智子さんのマンガとが、ご…
美術館でも構いませんが、歴史学のレポートですので、歴史的視点で書いてくださいね。
別の授業ですので、1本では困ります。ただし、1つの展示を別々の観点からみて、2つのレポートにするのなら「アリ」でしょうか。