2015-11-13から1日間の記事一覧

中世の修験道の山伏たちが修行をした神体山はごく一部の奥山で、人間の開発の手を免れていたということでしょうか? また、そういう山は村落周辺のはげ山との視覚的比較から、より神聖さが増していたということは考えられますか。

山伏の修行するような場所は、かなりの奥山です。平安期には、古記録に修験道の人々の話題が出て来ますが、彼らも鞍馬や熊野など、かなり奥地の峻嶮な場所を修行の舞台としています。それらは、水田化と柴草山化の波からは逃れる場所にあったと思われます。…

富裕な百姓の存在が、貨幣経済の浸透が原因ではなく、肥料の使用の可否が原因だとの見解が面白かったです。どちらの説の方が有力なのでしょうか。

前者は通説、後者は肥料の問題から再考を要求した新説ですね。貨幣経済の浸透の問題は否定できないでしょうが、肥料の件はこれまであまり指摘されてこなかったことですので、今後重要視されてゆくでしょう。また、「金を支払わないと充分な肥料が得られない…

はげ山にするほど一生懸命米を作らなかったら、日本人はどんなものを食べていたのでしょうか。

近世では「石高制」が敷かれ、経済の単位を米に置く、世界でも極めて得意な制度が機能していた。水田だけではなく、畑地や屋敷地を含むすべて「耕地」の生産高はすべて米の生産力に換算され、米で徴収されたわけです。よって、鍬や雑穀を作っていた畑にも米…

トブサタテという林業の風習に関心を持ちました。これで本当に木は再生するのでしょうか。また、この名称の語源は何でしょうか。

トブサタテは「鳥総立て」と書き、トブサとは、木々の梢が鳥の止まる場所になっていることを指します。フサ=「総」は、枝葉の茂っている様子で、昔立っていた巨樹が倒れたことに因んだ、上総/下総の地名表記と同じです。トブサタテには、実質的な再生機能…

草山、柴山の用途は、焼畑とは関係ないのでしょうか。

近世段階では、確かに列島の山地各所で焼畑も行われていましたが、水田稲作が拡大し、柴草山が環境の多くを覆い始めると、その焼畑でさえ水田に変えてゆく事態になります。よって17世紀以降の柴草山の用途は、主に刈敷の草を取るためのもので、焼畑の前段階…

英語の文献で、日本人の自然観について書かれたものを読んだことがあります。そのなかで日本人は、「人間は自然の一部」という考え方を持っており、長らく自然と共生してきたが、江戸時代頃には、「人間は自然の一部でありながら、自然を豊かにする力を持っている存在である」との考え方が、学者らの間でみられるようになったとありました。このような、自然に手を加え、自然を豊かにしようという考え方は、日本特有なのでしょうか。(熊沢蕃山に「怪物」という思想があったようですが…)

江戸時代の自然観は、多く儒教思想の読み直しのなかから生じてきます。天人合一の思想のなかで、人間の究極的には自然の一部であって、相関関係のなかに置かれている。その関わりにおいて、お互いに自己を実現してゆくことが可能であると捉えるわけです。ま…