2015-07-01から1ヶ月間の記事一覧

平忠常の乱について、上総=群馬と仰っていたようでしたが、千葉ではないのですか。

うわあ、言い間違いですね。ご容赦を。

仮名文学や女流文学などは、中国の影響を受けて進化したということでしょうか。

それは間違いありません。史料を深く読みこなせるようになるとだんだん分かってきますが、『枕草子』にしても『源氏物語』にしても、中国文化に根差した深い教養が随所に散りばめられています。漢籍を深く学んだことがある者でなければ分からない、多様なコ…

国風文化が東アジア交易に支えられていたというのは驚きでしたが、日本独自の文化がこの当時から作られてゆくことには、間違いはありませんよね?

問題は、「独自」という表現の内実でしょう。例えばカナ文字ですが、確かにその成立と発展によって、ヤマト言葉の文学が大いに展開したことは間違いありません。しかし平仮名も片仮名も起源は漢字ですし、同様の文字の展開は韓国のハングル、ベトナムの字喃…

平安時代はケガレに対する忌避感が強いですが、どうして現代の我々にはそれがないのでしょう。

そんなことはありません。このアジアのなかで、日本だけが異常に衛生観念を発達させている現状を考えれば、現在でもケガレ観は充分機能しているといえるでしょう。神社や寺院を聖域化し、清浄な場所と認識する心性は全国的に強固ですし、葬儀の際に清め塩を…

どうして検非違使のような重要な職が、本職にはならなかったのでしょうか。

検非違使の設置は、もともとは、左右衛門府の官人の特定の者に、京中の治安維持、不法行為の取締りを専当させたのが起源と考えられています。摂政や関白と同じく、本官がその職掌として定められた以上の職務を遂行できるよう、権限を拡大するような形で補任…

『枕草子』では、藤原伊周はしっかりした頼れる人のように書かれていますが、『栄花物語』ではけっこうヘタレに描かれています。どちらが本物の彼なのでしょうか。

うーん、残念ながらそれは分かりません。しかし、同一人物について個々の史料で描き方が異なっているのは、その史料の書き手の主観、書き手と当該人物の関係のあり方などに基づきます。記録のあり方が多様であればあるほど、その人物が立体的に浮かび上がっ…

どうして、天皇の顔ははっきり描くと不敬に当たるのでしょう。 / 『源氏物語』などの大和絵では、はっきり描かれていた気がするのですが…。

天皇の顔を描かない表現は、絵巻における「貴人の顔かたちをいかに描くか」という問題に起因するようです。絵巻には、庶民の顔は多く個性的・写実的に描かれていますが、貴人の顔はいわゆる引目鈎鼻で、高位のものほど抽象的に表されてゆきます。美術史研究…

人頭税から土地への課税へ変化したのは、中国の影響でしょうか。

確かに8世紀末、中国でも均田制が放棄され、資産額に基づき戸の等級を定め徴税をなす、両税法が開始されます。しかしこちらは、個別人心支配に基づく人頭税である点を放棄していません。日本の王朝国家が到達した。生産を行い収益の上がっている土地は、国…

無罪の権力者に謀叛の罪を着せて葬ってしまうのは、遺族の怒りを買い、よけいに自分の立場を危うくするのではありませんか。 / 謀叛の罪を問われたとき、裁判のようなものはあったのでしょうか。

律令では縁坐制が存在し、謀反・大逆・謀叛については、謀反大逆人の父子は没官のうえ官戸とされ、祖孫兄弟はみな遠流に処すものと規定されています。また、恣意的な運用も行われましたので、後顧の憂いとなるような芽は早くに摘み取っておくことが行われた…

藤原道長のあと、頼通が力を持ってゆきますが、彼は自分の娘を天皇に嫁がせてはいないのでしょうか。

頼通はなかなか娘に恵まれず、まず養女に迎えた姪の嫄子を後朱雀天皇の中宮としますが、彼女は皇女2人を儲けたものの、皇子を出産することなく24歳で産褥死してしまいます。続いて待望の娘 寛子が生まれ、後冷泉の中宮、次いで皇后宮となりますが、やはり皇…

「先例」が大事なはずなのに、一帝二后などどうやって実現しえたのでしょうか。

確かに平安時代の宮廷社会では先例が重視されていましたが、支配層は決して自縄自縛になっていたわけではありません。授業でも説明しましたが、摂関全盛期の花山、一条、後朱雀などは積極的に新制を打ち出していますし、地方の反乱をはじめとする事態に果敢…

道長の時代、さすがに天皇との姻戚関係は、近親婚が過ぎると思うのですが…問題などはなかったのでしょうか。 / 摂関が権力を掌握するために、わざと暗愚な人間を天皇につかせることもあったのでしょうか。

知的精神的に問題のある人間が皇位に即くことは、やはり国政に支障が出ますし、摂関が種々のトラブルに対処せねばなりません。よって、「瑕疵のない人物」が即位してくれる方が、実はリスクが少なくて済むのです。摂関時代前後で顕著な問題があったのは、主…

冷泉天皇は賢く、花山天皇はヤバイ人だと聞きましたが、本当でしょうか。具体的にどう考えればいいでしょう。

うーん、逆ではないでしょうか。冷泉天皇は幼少時より異常な振る舞いが多く、通常の政務を執れる人ではなかったようです。その第一皇子の花山天皇は、治世自体は兼家の陰謀により出家するまでの2年弱に過ぎませんでしたが、荘園整理令をはじめとする果敢な…

決定権が天皇にあったのなら、なぜそこまで摂政、関白の地位を得ようとしたのでしょうか。

自らの外孫である天皇ならば、彼が閲覧する書類や報告書をすべて先に確認しうる関白・摂政の地位につけば、その意向をある程度自らの望む方向へ調整することが可能となるからです。後宮の支配と摂関の独占は、天皇の意図をコントロールするための両輪として…

藤原氏による摂関時代、天皇の親政はみられませんでしたが、天皇への教育はきちんと行われていたのでしょうか。 / 摂関期の天皇は幼帝として即位し、政治にも参加できないまま、成長したら退位させられていたわけです。彼らの日常生活は、どのようなものだったのでしょう。何だかとても退屈な生活であったように感じますが…。

授業でも少しお話ししましたが、摂関時代の天皇たちは、これまで考えられていたほど政治に無頓着であったわけでも、政治から締め出されていたわけでもありません。また、文徳・清和・陽成・一条などを除き概ね元服後に即位していますので、幼帝ばかりであっ…

藤原氏のうち、なぜ北家だけが卓越した存在になりえたのでしょうか。

身も蓋もありませんが、歴史過程のなかでの積み重ねの結果、といわざるをえません。桓武天皇は北家より恩人の百川がいる式家に親近していたようですが、すでに同朝末年には、冬嗣の父に当たる内麻呂が政権の首座を占めていたようです。桓武は、この内麻呂の…

嵯峨天皇が20人も後宮に女性を入れたということには驚きましたが、当時でも多い人数だったのでしょうか。

遷都の話ですが、私は周囲の自然を破壊しすぎたために行われたと聞きました。そういう側面もあったのでしょうか?

平城京については、紫香楽から大仏造立を移管してきたために、その鋳造に用いる大量の薪炭材が付近に求められたこと、鉱毒が水路を通じて京内を汚染したことなどが指摘されています。もともと平城京周辺には、度重なる開発や都市生活のために樹木資源が減少…

平安遷都というと早良親王の怨霊を恐れたため、という印象が強いですが、占地は宗教的な理由から行ったのでしょうか、それとも単に地理的な便利さからでしょうか。

もちろん、まったくゼロということもないでしょうが、桓武の晩年を早良の怨霊に悩まされていただけのものとするのも、過小評価です。もし本当に怨霊が怖かったのならば、早良を後援していた勢力が扶植する平城京に還都していたでしょう。長岡京や平安京は、…

◎12で、なぜ晋侯の病が不節制が原因だと結論づけられたのでしょうか。 / ◎14で、晋侯が女性を近づけるうえで節度を保てと諫言されているのは、親族の女性であっても近づけてはいけないということでしょうか。

◎12では、まず晋侯の不行状に関して種々の噂があり、家臣たちがそれを憂える情況があったということです。史官や卜官の発言が機能していないという点は、彼ら官職の質が低下したという問題がもちろんあるのですが、君主への配慮から諫言ができなかったのだと…

◎10で、胞衣を埋める場所が「竹の多い地」と出てきたが、古代中国では、医療と水、もしくは治水と竹は何か関係があったのでしょうか。

ぼくもこの点は、少し疑問に思っていました。しっかり根拠のある回答ではないのですが、竹の象徴性というと、やはり長大に伸びてゆくこと、常に青々としていることから、長寿や永遠性ということになります。竹の多い地に胞衣を埋めるというのは、子供の長寿…

◎5の『産経』の逸文で、どうして女性が右で男性が左と決められたのか、疑問に思いました。

陰陽五行説に基づくものです。男性/女性は、それぞれ陽/陰に属しますが、左/右もそれぞれ陽/陰に属するのです。ゆえに、同一カテゴリーの男性=左、女性=右が結びつくのです。

西洋においては産業革命、学校の出現により、小さな大人と考えられていた「子ども」が「子ども」として捉えられるようになりましたが、古代中国において「子ども」の概念はあったのでしょうか。

古いところでいうと、前漢・馬王堆漢墓出土の『五十二病方』という医書に、嬰児の病に対する処方が載っています。病には、子供特有のもの、女性特有のものなどがありますので、その身体の構造や特徴に即して、独自のカテゴリーとして成り立ちやすかったもの…

中国では世界や人体の概念が共通していた、とのことですが、広い国土でどのようにして概念を共有していたのでしょうか。

確かに。なかなか難しい問題ですが、例えば気のエネルギーが循環することで世界の成り立ち、動きを説明してゆく考え方は、中国の世界観のなかではかなりプリミティヴなものに属するということです。儒教や道教、その他諸子百家の思想なども、このようなもの…

東日本大震災における東北への批判について、歴史学的にどのように反論したのですか?

震災直後の東北に対しては、1)繰り返し津波の来る水辺などに住むのが悪い、2)祖先からの災害の教訓を受け継いでいないので自業自得だ、という批判がありました。まず1については、縄文時代の最新研究を通じて、列島における定住生活が水辺と山麓の往復…

実践的過去とは、徳川家康やビスマルクのように、「賢者は過去に学ぶ」ということと同義とみなしてよいですか。

いわゆる「偉人」や「英雄」における歴史の継承を語ろうとすると、その言説は容易に権力の側へ引き寄せられてしまいます。むしろ一般の人々が、日々を生きるためにどのような「歴史」の援用を行ってきたのかが、実践的過去の射程にある問題です。例えば、賢…

『医心方』に書かれている処方を通じて、無名の人物や他に名前の残っていない人物を知ることができる、とありましたが、それを知ることでどのようなことが分かるのですか。

まず、他のどこにも残っていない人の存在、その経験が記されているということは、それだけで過去がより豊かになるわけですから、史料的価値が極めて高いということになります。医書に処方が記されているだけで、Aという人物がNという病に苦しみ、医師に相…

日本の医療の歴史において、ハンセン病などに関しては、治すのではなく隔離し、根絶させようとする医療法もありました。この場合は、医療と歴史との関わりはどうなのでしょうか?

ハンセン氏病への対処の仕方も、過去からの知識と技術の積み重ねになります。しかしかかる例は、その「積み重ね」にも限界や誤りがあったことを明確に伝えてくれます。その「積み重ね」がどこで誤り、なぜ歪んだ方向へ向かってしまったのか。医書やその他の…

歴史は過去と未来を繋げるものであるという考え方に、大いに共感しました。具体例として医書が挙げられていましたが、他にも当てはまる例はあるでしょうか?

授業でも少し触れましたが、占いの本、卜書などが面白い例だと思います。例えば、10世紀中国の各種資料を内包する敦煌文書には、占い関係の書物も多数残っています。そのなかには、現在のいわゆる人相見、相書と呼ばれる書物もあり、顔の形状や各部の特徴、…

かつて史学とひとつだったという医学は呪術的な要素も強いですが、現代に専門化が進むことで分化をしたものの、古代ではひとつだったという学問は他にもあるのでしょうか。

『周易』上経/賁卦/彖伝には、「天文を観ては以て時変を察し、人文を観ては以て天下を化成す」とあります。聖人は、天文をみて時節の変化を読み取り、人文をみて人民の情況を察しこれを教化成育する。つまり、世界の情勢やありかたをしっかり把握してゆく…