2016-05-06から1日間の記事一覧

キリスト教と融合した仏教の説話に何かありますか?

児嶋先生の論文を読んでください(笑)。それはそれとして、例えば仏教的要素、キリスト教的要素の双方を吸収していった伝承に、東アジアに広汎に伝わる都邑水没譚があります。一昨年の特講で詳しく扱ったのですが、中国の後漢時代に初見する、善人が都市の…

少数民族は、本当に徭役のない、特権的なものだったのでしょうか。

稲作を行っていないので、漢文化の制度で掌握できないところがあるのです。近世の明や清に至る記録のなかには、朝貢に訪れた異民族の有力者に特権を付与し、中華王朝に従属する範囲でなら現在の情況を保証するという命令が出されていたことが、確かに確認さ…

犬以外の動物を始祖に持つ部族はあるのでしょうか。

います。中国西南少数民族でも、虎、熊、鹿、羊、猿、魚、鳥、樹木など多種多様です。モンゴルは狼ですね。日本列島、とくにヤマト王権を開いてゆく畿内地域の人びとは、樹木トーテムであった可能性があります。

槃瓠の伝承は、『遠野物語』に出てくるオシラサマの話とよく似ている気がします。この2つは、何か関係があるのでしょうか。 / 二十四史をモチーフに『南総里見八犬伝』が書かれているとのことですが、江戸時代の人びとは二十四史の内容を知っていたのでしょうか。ならば、当時読まれていたテクストはどこにあるのでしょうか。

異類婚姻譚という意味では同じですが、内容は異なります。このレベルで似ているとしてしまうと、同じ神話・伝承が無数に出てきてしまいます。しかし、オシラサマの原型となった、ほぼ同じともいうべき馬娘婚姻譚も、『捜神記』に収録されています。同書が日…

槃瓠の説話で、犬に嫁いだ帝の娘が、奴隷の恰好をしたと考えられるのはなぜですか。

「僕鑑」の髪型、「独力」の衣は、いかなる意味か不詳とされています。しかし、帝がその娘の様子をみて嘆いていますので、粗末な恰好であったことは文脈上確かです。一方、字義的に解釈すれば、「僕鑑」とは下僕の証、「独力」とは独りで編んだ着物、あるい…

なぜ鳥が天、太陽、祖先などと結びつくようになったのでしょうか。 / ヤマトタケルが死に、その魂が白鳥になったという話が『古事記』などに出てきますが、鉄柱の鳥と同じものと考えてよいでしょうか。 / 柱の上の鳥と、屋根の上の鳳凰像などとは関係がありますか。

日本史概説ではいつもお話ししているのですが、例えば列島弥生期では、鳥は稲作農耕とともにシンボル化されてゆきます。農耕の開始に伴い、太陽光や雨をもたらす天が焦点化され、それを象徴するものとして、天空から降り立つ鳥に注目が集まるのです。東アジ…

『南詔図伝』の「鉄柱」ですが、鉄でのみ造ったという証拠はあるのでしょうか。

確かに、証拠はありません。あの『南詔図伝』だけですね。民俗事例との関連性でいえば、木製の方が理解しやすい。しかし、三星堆の青銅神樹にしろ、列島弥生の青銅器にしろ、王権や国家の胚胎段階では、シンボルに永遠性を認めて金属器を用いる例も多く、そ…

柱に蛇の巻き付いていることが、なぜ世界樹の常套形式になるのでしょうか。

上でも少し触れていますが、樹木は再生の象徴として崇められてきました。日本列島文化との関係でいえば、『竹取物語』の、かぐや姫が竹から生まれてくるといった要素は、その典型的なものです。竹は樹木のなかでも最も生長するスピードが速く、再生力の強い…

仏教や東アジアの神話と、一神教であるキリスト教の『旧約聖書』に近似した世界樹の記述があるのが不思議だな、と思いました。「木」というのは、やはりどのような地域であれ、生命の宿るものとされるのでしょうか。

『旧約聖書』創世記は、西アジアのさまざまな神話的要素を受け継ぎ、再構成することによって成り立っています。智恵の実をイヴに食べさせる蛇の話も、ギルガメッシュ神話における、不死の力を横取りする蛇に共通します。生命の木・智恵の木のイメージは、シ…

崇聖寺三塔の構造は、どのようになっているのでしょうか。また、どれくらいの大きさのものなのですか。

中央の千尋塔は、70メートルほどですね。磚すなわちレンガ造りで、なかは中空貫通しています。

大理の観音塘で、四天王に普通の人が踏まれている事例ですが、日本の事例にも同じようなものを観たことがあります。大阪の尊延寺の降三世明王だと思うのですが、邪鬼ではなく、菩薩のようなものを踏みつけており、奇異に感じました。これは東アジア仏教美術史において、珍しい事例なのでしょうか。

あれは菩薩というより、天部だろうと思います。左足には、憤怒相のものを踏みつけていますね。いわゆる仏教に帰依していない神々は、餓鬼道に取り込まれたり、語法神として天部の扱いを受けたりする。降三世などは、仏教に従わないものを威圧し回心させる役…

大理においては、密教が固有のシャーマニズムと習合して変容したとのことですが、唐においては密教はどう取り入れられたのでしょうか。シャーマンというと日本では恐山のイタコが思い浮かぶのですが、あの地域でもかつてシャーマニズムが存在したのでしょうか。

中原では、密教は雑密から純密へ、経典を典拠として展開してゆきます。雑密とは、仏陀の説く大乗経典のなかに陀羅尼などの呪文が書かれ、それを読誦することで特定の尊格に働きかけ、呪術的効果を導き出すもの。これがやがて、ヒンズー教に対抗する形で種々…