2016-05-09から1日間の記事一覧

公孫氏の燕国と邪馬台国が外交関係を持っていたとして、燕国には何か政治的利益があったのでしょうか。

公孫氏は常に魏と呉を相手にしなければならなかったので、例えば管理下に置いていた朝鮮半島は、兵站としても重要な意味を担っていたでしょう。その南方にある邪馬台国と友好関係を結んでおけば、後の備えとして重要な意味を持ったはずです。

卑弥呼は魏ではなく、呉と交渉しようとは思わなかったのでしょうか。

どうでしょうか。すでに対立する他国が呉との関係を強めていた可能性はありますね。例えば邪馬台国を畿内政権とすれば、彼らは朝鮮半島、もしくは遼東半島を通じて中原、華北の王朝と結ぶのが早道だったでしょう。一方の呉は、東シナ海を挟んで北九州の国々…

地図をみると、クシャーナ朝はそこまで気にするのかというくらい西にあるのですが、西域はそれほど緊張状態で兵を割かなければならなかったのでしょうか。

魏が大月氏国(中国ではクシャーン朝と月氏と連続する国家と把握していた)を重視したのは、蜀を睨んだ近攻遠交策でした。一方のクシャーン朝でも、時のヴァースデーヴァ1世(波調)は、勃興するササン朝ペルシャに対する備えとして魏との友好を望み、使者…

女性は、どのあたりの時代から政治に関わらず、家の中へ押し込められていったのでしょうか。

中国の律令官制では、家父長制のもと女性は政治の場から排除されており、後宮では男性機能を除去された宦官が奉仕していました。しかし、もともと双系制をなし女性の立場が高かった日本列島では、政治や社会の場で男女の共同労働が普通に行われていました。…

箸墓古墳の副葬品は調査できないのでしょうか。 / 古墳の石室への立入は、考古学者でも難しいのでしょうか。

授業でもお話しするように、前期古墳は竪穴式石室を持ち、これは墳丘内に密閉されているので、調査するためには発掘作業を行わなければなりません。文化財保護の観点から問題もあり、費用もかかりますので、おいそれと掘り返すわけにはゆかないのです。また…

帥升も卑弥呼も、なぜ魏に生口を献上したのでしょうか。どのような意味があったのですか。

夷狄や戦争捕虜を従えることは、自国の勢力の大きさを誇示することにほかなりません。帥升の場合も邪馬台国の場合も、自国が列島の戦争状態を鎮めた勢力ある国であることを、魏国に対して示そうとしたのでしょう。また、古代における強権者への供献は、一種…

『魏書』では卑弥呼は婚姻していないとされているのに、なぜ神功皇后と同一視されたのでしょうか。卑弥呼のモデルは、箸墓古墳のヤマトトトヒモモソヒメであると聞いたことがありますが…。 / 高校の先生に、卑弥呼は天照大神のモデルだと聞いたのですが、そんな説はあるのでしょうか?

『日本書紀』が『魏書』の卑弥呼に関する記述を神功皇后紀に配したのは、『魏書』の記述をすべて正当な事実と認めたわけではなく、景初二年の女王朝貢を神功皇后の時代に争闘するものとし、正史としての客観性をアピールしようとしたものでしょう。よって、…

今後、邪馬台国の位置が確定されることはあるのでしょうか。

卑弥呼が魏から賜与されたという「親魏倭王」の金印が出土すれば、邪馬台国の位置確認に大きな手がかりとなるでしょう。それがなければ、どれだけ研究が進んでも情況証拠の積み重ねによる推測、ということになります。

歴史学者の間で、なぜ『魏書』がそれほど重要視されていたのでしょうか。

やはり、その時代を記録した唯一の文献史料ですので、重視せざるをえません。また、儒教を重視した近世は漢学が学問において支配的であり、中国正史は歴史学者の聖典ともいうべき位置を保っていたのです。近代歴史学は、ドイツの実証主義を採り入れ「科学的…

邪馬台国は、他の国々と比較して何が優れていたのでしょうか。

そのあたりの経緯は、『魏書』から窺い知ることはできません。ただし、その政治・社会制度、統治制度はかなり進んでいて、大陸の知識を積極的に採り入れていた痕跡があります。それが統一以降に始まったものか、あるいは統一以降に作られたものかは分かりま…

青銅器祭祀から墳丘祭祀への移行について、なぜ前代の祭祀のあり方を、例えば祭器の破壊などによって放棄しなければならなかったのでしょうか。豊作を願いつつ、祖先信仰もできたと思うのですが。

青銅器祭祀と墳丘祭祀とでは、それを支える社会の構造が異なるのが問題なのです。前者はあくまで共同体の祭祀であり、共同体全体が神霊と関わるものです。祭祀はシャーマンによって担われ、必ずしも政治的リーダーとは一致しません。リーダーは共同体をまと…

青銅器祭祀から墳丘祭祀への魁となった出雲地域が、後に出雲大社などに代表される宗教的、政治的に重要な場所となってゆくことには、何か関わりがあるのでしょうか。

それはありますね。まず、弥生時代の政治的グループは、その後の古代の豪族勢力の基本をなしてゆきます。北九州、出雲、吉備、東海は、ヤマト王権のなかでも大きな力をなす集団を形成します。なかでも出雲は特殊で、王権に服属する集団の象徴であり、また宗…

弥生時代中期前葉後半〜後期前半に、青銅器祭祀を重視した地域とそれを終息させた地域に、まとまりがないのが気になる。また、近畿中央と近畿北部、山陰・山陽は隣接しているうえに陸続きであるが、なぜ青銅器使用に差が生じてしまったのだろう。

難しいですが、山地で隔てられた陸地より、むしろ海を挟んでの交通の方が活発であった点も影響しているでしょう。例えば出雲地域の四隅突出型墳丘墓は、北九州や畿内、瀬戸内地方へは充分に波及せず、沿海部を伝って北陸へ伝播してゆきました。

突線鈕型の銅鐸の突起の部分は、何を象徴しているのでしょうか。

どうでしょう。一説には渦巻ですね。渦巻文は、生命エネルギーを象徴するものとして、世界各地に確認できる普遍的文様のひとつです。

銅鐸が聞くものから見るものへ変化したのはなぜですか。 / 青銅器の巨大化はなぜ起こったのでしょうか。装飾品として豪華にみせるためですか。

祭祀で用いられる音は、概ね神を招き、喜ばせるものだと考えられています。銅鐸も、当初はそのようなものとして使用されていたのでしょう。それが巨大化し、絵画や装飾などが過多になってゆくのは、ひとつにはやはり神霊を喜ばせるためであり、もうひとつは…

当時の人々は、銅鐸を祭器として用いたり、他にもアニミズムを信仰して豊穣を祈ったりしていたようだが、本当に効果が現れることはあったのだろうか。私は効果など現れるはずはなく、信じない人が増えてもおかしくないと思うが。

宗教や信仰というものは、祈願者の欲望を直接的に成就できないからといって、簡単に放棄されたりはしません。この「科学万能」が信じられている世の中でさえ、初詣に何万という人が寺社へ参詣しています。東日本大震災のあった2011年の正月も、東北・北関東…

日本では、目にみえない"神"の存在を第一に崇め、祭祀の対象を形に表さないことが近年の風習ですが、古代では青銅器に描く自然を対象にしたり、古墳の被葬者を対象にしている。どの段階で、祭祀の対象を具現化しなくなったのだろうか。

このあたり、やはり問題の整理が必要です。まず、神格の偶像化/具体化は、例えば進化のように直線的、単線的に起きてくるのかということ。土偶を大地母神の形象とみるなら、すでに縄文時代に神格の偶像化は起きています。また神社の原型となる古墳時代の祭…

動物信仰について、虫を信仰していた痕跡などはあるのでしょうか。

いわゆる昆虫ですね。古代のカテゴリー(とくに中国的な)では、蛇も蛙も蜥蜴も虫なので(漢字に虫偏が付いています)、まず厳密に区別しておく必要があります。そのうえでの虫への信仰ですが、目立ちませんが、恐らくないわけではなかったろうと思います。…