2016-05-13から1日間の記事一覧
個々の文脈によるでしょうが、洞窟が修行の場になっていたのは、中国へ仏教がもたらされた後漢から六朝にかけて、西域などでも流行した現象でした。そのため壁画には、現実世界のしがらみを逃れるための九相図、浄土をイメージするための変相図など、さまざ…
授業でもみましたが、周辺の山林に比して奇巌が露出している特異な印象の場所であり、それゆえに聖地化されたのでしょう。上に答えた、磐座の論理と同じです。「飛来する」という現象については、やはり天空が未知の流域であることと関連するのでしょうね。…
山自体が移動する、ということですね。とにかく、『法華経』の説かれた場、いうなれば法華信仰のオリジンたる聖地が霊鷲山なのであって、それが中国、日本に現れたということは、同地が法華宣揚の場としてインドに劣らない神聖性を獲得したことを明らかにし…
ちょっと誤解があったかもしれませんが、巨岩信仰、磐座信仰は仏教以前から列島に存在しました。後に宗像大社を備える沖ノ島、大神神社を持つ三輪山など、古墳時代から歴史時代の神社に直結する祭祀遺跡には、いずれも巨岩の屹立する景観をみることができま…
天竺からは多くの仏僧が中国にやって来ており、玄奘以前にも、4世紀の法顕など、天竺へ渡った中国僧はいます。よって極楽浄土を求めたというより、中国に欠けている仏典を持ち帰り、最新の仏教の考えを学ぶためであったとみてよいでしょう。
日光の三猿は、人の一生のあり方を諭す猿の一代記の一場面で、とくに辟邪の意味合いを持つ意匠ではありません。不見・不聞・不言の訓戒は中国に古くからあるもので、これが日本に伝わり、猿を神使とする山王神道、日吉社を鎮守とする比叡山で、否定のサルと…
民話「十二支由来」のなかで、玉帝や釈迦の召命を受けた動物たちのうち、もともと仲のよかった犬と猿は共に出発するものの、競争するなかで仲違いをしてしまうというくだりがあります。犬猿の仲という言葉はこの物語に由来していますが、せいぜい近世に一般…
授業でも言及しましたが、石田英一郎『河童駒引考』が、馬と猿の関係を追究した代表的なものです。『西遊記』の完成形でも、孫悟空が三蔵の乗る馬を引いてゆく形式が出来上がります。馬や牛は、ユーラシアの各地で水神としての性格を持っているもので、とく…
一般的な猿は、必ずしもそうではありません。以前にも質疑応答で言及した『成実論』のなかには、「落ち着きのない、軽薄な人間が猿に生まれ変わる」といった記述が出てきます。あくまで、江南などの地域で神聖視されていたものが仏教に取り込まれ、そこで出…
前近代あるいは民族社会の人々は、動物に対し、現代人のように「愚かなもの」と考えると同時に、人間にはない特別な能力を持つ存在として尊重してもいました。以前にもお話ししたように、動物を食べるという行為のなかには、動物の持つ特別な能力を身体に取…
やはり、時代と地域の特徴によって、梵僧に付き従う動物のありようは変わってくるのだと思われます。必ずしも、仏教の全流行において、犬から猿へ、あるいは猿から犬へという変化があるわけではありません。林慮山の霊隠寺と江南の霊隠寺は、どちらが成立時…
一般に、仏教を離れたところでも、白色は清浄を表現するものとして神聖視された色です。黒と対立的に用いられることは多くの文化にみられ、仏教伝来の動物として白/黒のものがみられるのも、例えば日本のあ・うんのように、始まりと終わりを表すものであっ…
一般的には、狛犬は獅子が変化したものだと考えられています。聖域を守るために配された獅子像が半島を経由して伝来し、威力ある半島の犬として高麗犬=狛犬と捉えられるようになったというものです。しかし、授業でも紹介した『集神州三宝感通録』の霊隠寺…
いわゆる六道輪廻の六つの世界のなかで、動物が属する畜生道は、地獄道・餓鬼道と並んでもっともランクの低い「三悪道」のひとつです。よって、畜生道からなかなか一足飛びに成仏することはできません。しかし、善行を積んだり、仏教への帰依を深くしたりし…
鈴鐸の話も『梁高僧伝』に出ていますので、記述者の慧皎はそのあたりを矛盾しないよう配慮したと思います。すなわち、最後の仏図澄の自説の原文は、「酒は齒を踰えず」です。すなわち、口に含んでも歯の奥に入れなかったという書き方なので(可能かどうかは…
この話も『梁高僧伝』に出てくるのですが、「斎日」に、と書いてあります。すなわち、自らの身体を清浄にすべく、体の外面だけではなく内臓さえも洗ったのだ、という意味でしょうね。