2016-05-16から1日間の記事一覧

纏向遺跡で出土した桃核は、貝塚のように消費した桃を集めておかれた遺構なのでしょうか、それとも遺跡内に点在していたのでしょうか。

纒向遺跡の桃核は、土坑からまとまってみつかっていますが(2000個以上に上ります)、詳しく分析したところ食べられた痕跡がなく、恐らくは付近に桃の栽培地があって、一括して廃棄されたものだろうと考えられています。桃核は、纒向以前の弥生時代から吉備…

結局、魏が援軍を送らなかったのはなぜでしょうか。

直接魏の領土に関わらない他国内の内乱ですから、普通は援軍など送らないでしょう。そもそも魏は、朝鮮半島の安定と呉への対処の目的で倭を必要としたのであり、そこで軍を邪馬台のために割いてしまえば、本国の防衛が危うくなります。本末転倒となります。

神仙思想は日本の御伽草子にも取り入れられているそうですが、どうして川が桃源郷に繋がっているのでしょうか? 私なら空をイメージします。 / 上流から高貴な人が流れてくる話は世界中にあると思いますが、日本のように急な川ばかりある国では少ないのでしょうか?

あらゆる地域で、川は生命の源です。灌漑農耕にしても都市生活にしても、川や井戸がなければ成り立ちませんし、交易・流通の面でも極めて重要な意味を持っていました。洪水による被害も恐ろしいものでしたが、平時の恩恵には計り知れないものだったのです。…

箸墓古墳を造営するのに、延べ135万人も労働力を動員したとありましたが、仮にヤマト王権が畿内であった場合、現在のどの市、県の規模があったのでしょうか。また、そのような多人数をまとめるシステムは、何を例としたのですか。 / 当時のヤマト王権の王たちは、どのような手段を用いて、治水工事などの人員を確保していたのでしょうか。

ヤマト王権の勢力基盤は畿内で、その核となる部分は畿内豪族の結集体とでもいえるでしょう。これからお話ししてゆきますが、大王家には幾つかのグループがあり、箸墓を生み出した奈良盆地のグループ、大仙陵古墳を生み出した河内平野のグループが主要なもの…

銅鏡が山梨県から出土したとありましたが、誰かが九州から持ち出したものとは考えられないのですか? また、九州からは1枚も出土していないのですか?

呉の年号、赤烏元年(238)銘を持つものが山梨県の鳥居原狐塚古墳から、同じく赤烏7年(245)銘のものが、兵庫県の安倉高塚古墳から出土しています。呉の年号を持つ銅鏡の話で、銅鏡全般のことではありません。銅鏡自体は、九州からもたくさん出ています。

邪馬台国は魏の属国といえるでしょうか。

一応、「王」として冊封されていますので、朝貢国という位置づけだと思います。しかし遠方の夷狄に等しい存在ですので、実質的には、友好勢力程度にみられていたのではないでしょうか。

ある本で、日本に処女信仰が始まったのは明治維新で西欧の価値観が流入してからだと書いてあったのですが、そもそも神に仕えるのは清らかな処女であるべきという考え方が定着したのはなぜでしょうか。

かつては、古代においては神に仕える女性は未婚でなければならない、それが太古の昔からの伝統なのだ、と信じられていました。しかし近年の、とくに義江明子さんらの研究によって、古代に遡るほどそうした処女性は重視されておらず、既婚者や子供もいる女性…

陶邑の樹種分析などから分かる環境破壊は、日本の歴史にどう影響を与えてゆくのでしょうか。建築や水軍力のあり方にも影響してゆくのですか。

古墳時代の頃ですから、環境改変が進んでゆくといっても、即座に社会にマイナスの影響が出るほど、環境が悪化してしまうわけではありません。しかし7世紀にまで至ると、藤原京建設に至る時点で、すでに飛鳥周辺の森林における建築用大径木は底を尽き、近江…

卑弥呼の死で魏との外交が失われてしまったことに驚きました。難升米などの卑弥呼の近くにいた人々は、その後どうなってしまったのでしょうか。 / 『魏書』にはなぜ台与に関する記述が少ないのでしょうか。

『魏書』の記述に従うと、狗奴国との軋轢に対応すべく張政が邪馬台国へ渡ったようで、後継者が台与に落ち着くまで滞在し事態の収拾に当たったようです。どのくらいの期間か分かりませんが、一度男王が立って政権が混乱し、誅殺の嵐が吹き荒れ、そののちに台…

卑弥呼の夫の話が出てきましたが、彼女の世話をしていたのは「男弟」ではないのでしょうか。

とりあえず、『魏書』東夷伝倭人条には、このように出ています(原漢文)。「倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰ふ。鬼道を事とし、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫壻なし。男弟あり、佐けて国を治む。…

神仙思想は、古墳時代の日本に広く知られていたのでしょうか。あるいは、一部のみに伝わっていたのですか。

銅鏡など神仙思想を表すモノは、王権のトップから地域のトップへ伝来していたでしょうし、前方後円墳が神仙思想に基づくものなら、その意味するところは教示されていたはずです。7〜8世紀にみられる神祇関係の記録、祭祀の祝詞や次第をみていると、古代の…

陶邑の木炭の樹種分析について、5〜6世紀は減っているが、6〜7世紀は急に増えている。これはアカマツが増えたからと理解してよいのでしょうか。

授業でも少しお話ししましたが、グラフに現れている木炭の量が、周辺の森林量を直接的に示すわけではありません。例えば、盛んに操業していればそれだけ木炭量は増え、活動が弱まっていれば減る。全体の木炭量が減少傾向にあるのは、森林資源が減少している…

樹木を大量に伐採して環境改変を行うことは、当時の人々の心性と矛盾しないのでしょうか。 / 古墳時代には、アニミズムなどの観点から森林伐採に反対する人々はいたのでしょうか。 / 森林伐採は国家的事業として行われたのですか?

未だヤマト王権下においては、各地域の土地を公有にするような中央集権体制は実現できていません。よって、ヤマト王権の勢力基盤である近畿地方と、地域首長との関係において設定した直轄地以外で、大々的な国家事業を展開することはできなかったでしょう。…

寒冷多雨の環境下で、各地の王はどのようにクニを作りあげ、それを安定化させる水稲耕作を続けてゆくことができたのだろうか。

やはり、まだ分からないことが多いですね。授業でお話ししたとおり、品種改良などの対応が未だできない技術段階にあって、気候の悪化するなかで稲の収穫を確保するためには、治水を行いできるだけ多くの水田を確保することです。河川の流路変更や溜め池の造…

大仙陵古墳のような大型の古墳を築造するためには、非常に多くの労働力を必要としたと思いますが、人々は支配階級の指図に黙って従っていたのでしょうか。古墳の造営作業に対する不満とそれによる人々の反抗、あるいはそれが起こらないほど恩恵が与えられた記録があるのでしょうか。

古墳時代の社会に対する記録は、中国にもほとんど残っていません。『日本書紀』や『古事記』の内容も限られたものですので、民衆レベルの動向復原は、なかなか難しい状態です。弥生時代に灌漑稲作が導入され、それを契機に社会の大きな変動が生じてから、地…