2016-05-20から1日間の記事一覧

少数民族のクランと、動物の生息域は一致するのでしょうか。民族の移動により、クランの対象動物がみられなくなっても?

これは本当に重要な問題ですが、例えば、少数民族のトーテムのうちで最も広汎に分布しているのは、虎トーテムなのです。これは、東南山地を中心に棲息してたアモイトラ(華南虎)のためで、ほぼ、民族集団の分布範囲、生活領域と一致しています。しかしこの…

十二支と十二獣の動物がほとんど同じなのは、どちらがどちらかに影響を受けているからですか?

それはそうですね。十二獣が仮にインド由来だとすれば、それが漢訳されるとき、中国の十二支が参考にされたのだと思います。最も大きな相違は師子/虎ですが、中国では獅子は想像上の動物、麒麟や龍に近いものでした。それでも、虎と対応する位置に置かれて…

『遠野物語』から平地の人たちによる山に住む人々への差別がみられたが、山に住む人たちは、平地に住む人々のことをどのように考えていたのだろうか。

これは重要な視点ですね。例えば、近世に山中を移動しつつ、樹木を伐って器などを作成していた木地師集団は、その生業を歴代の権力者が保障したお墨付きを持ち、平地の人々との通婚を厳しく規制していました。これとよく似た文書を持ち、やはり移動と焼畑に…

山の民は、いつから偏見を持ってみられるようになったのですか。

こういうことは、関係論的に捉えなければなりません。すなわち、平地の道徳、倫理、価値観が確立していったことと関係があるのです。日本列島の場合は、やはり、稲作文化の一般化に対応します。例えば、かつて標高300メートルを超える山々には、縄文時代の人…

十二神将にしろ十二誓願にしろ、なぜ12という数字が仏教においては重視されているのでしょうか。また、十二獣と十二支は、方角に準えられることが多いのでしょうか。

12は、仏教だけではなく、種々の宗教で整数として用いられるスタンダードのひとつですね。例えば、キリスト教でも「十二使徒」などがあります。これは、12が月や方位など、世界を分割する、あるいは表現する基本的な数字であるからです。ネリー・ナウマンら…

山と里・平地の対立が東アジアを中心に各地でみられたという話だが、それは里に住む人々にとって、山が神秘的な存在であったからこそ、そこに住む人々も人間離れした存在と考えたのだろうか? / 山で修行もするのに、なぜ差別的な四川でみるのでしょうか。 / 西洋の聖書的自然観において、自然と人間など、二項対立的な事例はあるだろうか。

ひとつにはそのとおりです。山は恐ろしい獣のほか精霊なども跋扈する世界と捉えられていたので、そこに生きる人々は常人ではない、あるいは魑魅魍魎の仲間であると考えられていたわけです。しかしそうした神秘化は、ある意味では差別なのです。これは、ヨー…

動物に関する伝承で、人と動物の混血が人間的な姿になることが多いのはなぜですか。

いわゆるアニミズム信仰においては、信仰の対象は森羅万象に宿る生命=精霊ですが、これは人間と同じ姿をしていると考えられることが多かったのです。熊や虎、狼などの獣も、その毛皮を脱げば、人間と同じ姿をしている。逆に人間が毛皮を着れば、熊や虎、狼…