2016-05-27から1日間の記事一覧

シーシェパード等の問題は、文化ではなく価値観の問題で捉える必要があるのではないでしょうか。

捕鯨の話が面白かったです。九州の話が出ていましたが、愛知の辺りや瀬戸内はどうだったのでしょうか。網は瀬戸内でも生産されていたのではないでしょうか。

輪廻転生とは、ひとつの魂がどんどん違うものに変わってゆくということですか。とすれば、前世の記憶などはどうなってしまうのでしょう。

人が虎になる「山月記」なども、知らず知らずのうちに、仏教の考え方の影響を受けて作られたのでしょうか。

神と関係している猿と蛇とでは、仏教の扱い方に相違があるように思います。蛇は醜く、猿はそう批判されないのはなぜでしょうか。

仏教が在地の宗教を駆逐する、あるいは取り込んでゆく、とのことでしたが、取り込まれた側の、例えばシャーマンなどは、その後どうなってゆくのでしょうか。

廬山と近江を繋ぐ伝承は各地に残っているのでしょうか。仏教伝来ルートである百済など。

経典を講読するためには、それほど対価、準備が必要だったのでしょうか。

『日本霊異記』の神身離脱譚は、『梁高僧伝』等から影響を受けたものなのでしょうか。

悪神としての寿命が尽き、生まれ変わった姿が少年の姿というのは、どんな意味があるのでしょうか。 / 私は蛇というと女性のイメージが強いのですが、男系の意味があるのでしょうか?

蛇の性別については、中国では主に男性、日本でも古い時代ほど男性表象として現れてきます。蛇の身体は、そのまま男根の象徴なのです。例えば『古事記』のヤマタノヲロチでも、蛇身の三輪神=オホモノヌシも、『風土記』や『日本霊異記』の蛇神も、ほぼ男性…

僧侶が悪い行いをして神に「なってしまう」のと、修行に耐えて神に「なる」のとでは、動物としてか人間のままでかの相違だけで、崇められる対象という点では同じであると思う。何が違うのか。

仏教では、修行によって神になるという発想はありません。それは神仙思想、もしくは道教のものです。仏教にとってあらゆる神は邪な存在であり、しかし護法、奉仏に転じることによって、その地位は大きく転換することになります。

『梁高僧伝』において神の身に「堕ちる」と表現するのが、よく分かりません。神は高貴な存在ではないのでしょうか。

以前にもお話ししましたが、仏教は、在来の宗教を取り込むときに、民間で崇められる祠廟の神を「餓鬼道」に配分します。神仙は「天人道」にも配されますが、これは仏教に帰依し護法の神となったものがほとんどです。なぜ餓鬼道なのかというと、祠廟の神へは…

孫悟空が土着信仰と融合して生まれたのなら、猪八戒や沙悟浄も土着信仰と結びついて生まれた従者なのですか。また、豚に関する信仰が存在する地域はあるのでしょうか。

沙悟浄は、やはり『西遊記』の前段階に属する三蔵西天取経説話において、流沙河の主として登場し玄奘を守護する深沙大将がモデルです。同神は玄奘の翻訳した『大般若経』に登場する十六善神の筆頭で、法相宗の寺院などでも安置、奉祀されているところがあり…