2016-05-30から1日間の記事一覧

なぜ王権は、「万世一系」であることに拘ったのでしょうか。

中国王朝が易姓革命によって何度も交替するなか、長い歴史があることで、新羅や唐に対する日本の正当性を語ろうとしたものかもしれません。また、そもそもの正当性の語り方が、アマテラスに地上の支配を付託されたニニギの天孫降臨、すなわち神話に求められ…

ヤマト王権の王位継承が、実力主義であることに驚いた。後の聖徳太子による改革が、血縁主義から実力主義への転換であると習ったのだが、では、血縁をよしとする思想はいつ、どのようにして起こったのだろうか。

王権の安定的な継承を考えたとき、実力重視のあり方では、常に内乱の危機を抱え込むことになります。事実、古墳時代から飛鳥時代へ接続する継体朝においては、前代までの王統が断絶し、列島各地で反乱も生じて、まるで邪馬台国における卑弥呼の死の直後のよ…

大王という地位のあり方には、中国からの影響はあったのでしょうか。

直接的な影響は確認できません。なお、オホキミのオホ=「大」には、その後「王権のものである」との意味が一般化し、「大宮」「大寺」などと使用されます。

ヤマト王権と朝鮮半島との交流を示す鉄鋌は、当時半島と直接関係していなかったかにみえる関東でも出土しているようです。それはなぜなのですか。

関東地域は、結局鎌倉幕府の開設に至るまで、中央政府に対する独自性を確保しています。王権にとっては、味方に付ければありがたい存在ながら、常に緊張感をもって交流することを強いられたでしょう。実際、『日本書紀』には、武蔵国造の反乱記事が収められ…

倭王武の上表文の内容は、すべて事実として認めてよいことなのでしょうか。

もちろん、編纂者による改変の可能性、武自身の誇張など、事実をわい曲した可能性も考えられます。しかし、高句麗や百済・新羅など、当時の朝鮮半島諸国もほぼ同形式の上表文を宋に送っており、東アジアにおける府官制の展開は事実であった可能性が高いと考…

倭の五王は、済になると突然朝鮮半島における力が大きくなりますが、何か原因があるのでしょうか。

讃―珍と済―興・武が異なる血統だとすれば、前者を河内グループ、後者を大和グループに当てる説もあります。ワカタケルの宮として金石文に出てくる「斯鬼宮」は奈良盆地中央部のシキのことですから、雄略=倭王武が大和グループであったことは確かです。とす…

これほど強大な力を持った倭の五王の墓が発見されないのはなぜでしょうか。

前方後円墳のうち、宮内省によって陵墓参考地に比定されている大王墓は、発掘することができないのです。よって、発見されていないということになります。大和グループ、あるいは河内グループの巨大前方後円墳のなかに、ワカタケル大王の墓も確実に存在する…

当時はどれくらいの速さで、国と国とのやりとりがなされていたのだろうか。

ヤマト王権は、中国や朝鮮半島と盛んに交流していましたが、台湾や南西諸島とはどうだったのでしょうか。

この頃は、まだ充分な記録が出ていないですね。ただ飛鳥時代の後半〜奈良時代に入ってゆく頃には、領土の拡大と境界の画定に意が払われ、南西諸島の人々が飛鳥へ朝貢してきている様子を確認できます。「都貨羅人」などの名称も出てきますね。しかしそれらが…

鎌倉幕府も府官制の考え方に基づいているとのことですが、それほど古くからあるシステムに対して、平氏政権や朝廷は何も対策を取っていなかったのでしょうか。 / 征夷大将軍の原型が府官制だとすると、その伝統は近世にまで受け継がれていることになる。明治維新は画期的だ。

当然想定していたからこそ、後白河と頼朝との間で緊張感のあるやりとりが展開されるわけです。頼朝が義経のように中央へ帰属してしまえば、恐らく武家政権は出現しなかったでしょう。恐らくは漢籍に精通した大江広元など(守護・地頭設置も彼の提案)、頼朝…

幕府は朝廷から任命されるイメージでした。朝廷がなかった時代、中国から許可を得ていたとは驚きでした。

つまり、鎌倉時代における後白河法皇―源頼朝の関係が、南北朝時代における宋―倭の関係と相似形なのです。東アジアは中華王朝を主宰者とする世界(もちろんこの時期、その中華王朝が南北に分裂していたわけですが)ですので、東アジアにおける国際関係のなか…

なぜ倭国は、南朝の宋に対して使者を派遣したのでしょうか。北魏の方が力が強かったのではありませんか。

かつての中原王朝の影響を受けてきた東アジア諸国には、やはり中華王朝の正統は漢文化である、南北朝の北朝は異民族文化であるという認識が強かったものと思います。また、倭王武の上表文のなかにも書かれているとおり、高句麗が朝鮮半島の付け根で大きな勢…

中国洛陽においてみつかった銅鏡ですが、その出土情況などについて、その後何か判明しているのでしょうか。 / 報道が限られていたようですが、捏造やでっち上げということはないのですか。

実際のところは、少し難しい情況と思います。確かに中国では、贋作の発掘品、あるいは他所から意図的に混入されたものなどもみられるのです。しかし、10年ほど前に話題になった遣唐留学生井真成の墓誌など、貴重な発見がなされる場合もあります。議論の行方…

三角縁神獣鏡が、四神四獣形式から三神三獣形式に変わったのはなぜでしょうか。それぞれの神獣は、そもそも何を表しているのですか。

銅鏡は中国からの、朝貢に対する回賜品だったかもしれないとのことですが、当時銅鏡は製造しやすかったのでしょうか。 / 三角縁神獣鏡は、中国からの回賜品ではなく、日本からの貢ぎ物である可能性はないのでしょうか。また、朝鮮など他の地域からは出土していないのですか。

銅鏡の使用目的は、現在の鏡と同じですか。

授業でもお話ししましたが、主に祭祀用です。鏡は太陽を象ったもので、同時代の中国でも、銅鏡で辟邪の力を持つ呪具・祭具として使用されたことが、『抱朴子』などに書かれています。

装飾古墳の蕨は生命力を象徴しているとのことだったが、蕨は当時、人々にどのように認識されていたのだろうか。

ああ、これはちょっと説明不足だったかもしれません。あれは蕨の形状をしているので蕨手文と呼ばれていますが、蕨そのものを象ったわけではないと思われます。史料もないのでその意味を正確に論じることは難しいのですが、生命エネルギーの噴出するさまを描…

装飾古墳の壁画を描いた顔料は、何を使用していたのでしょうか。

多くは、岩石を砕いて生成した顔料によるものです。顔料には、赤、青、黄、緑、黒、灰、白などがありますが、古墳時代にはすでに漆器もあり、刷毛目を持った土器が出土していることからハケのような道具があったことは確実で、それらを利用して描かれたとみ…

古墳の被葬者はこれから実際の死後の世界に向かうというのに、なぜ生者は玄室に死後の世界を描いたのですか。

いい質問ですねえ。玄室へ壁画を描くことは、それ自体が一種の葬送儀礼であった可能性があります。もっと正確にいえば、古墳を築造すること自体が、「送る」ことの一環なのですね。装飾古墳については、壁画を最新のモードで修飾すること、中国や半島に由来…

アマテラスが天岩戸に籠もってしまう神話で、やはり穴を閉塞するのは巨大な岩であったと思います。あれは古墳文化とは関係ないのでしょうか。

岩戸籠りの神話は、冬至の祭祀を神話化したもの、その起源を語ったものと考えられています。すなわち、太陽が岩戸に隠れてしまって、世界は闇に包まれる。暖かさも薄れて、作物が実らなくなり、生物も生きてゆくことができなくなる。そんな冬に、太陽のエネ…

黄泉国神話に出てくるさまざまな要素は、中国の昔話に出てくる孟婆の湯や、三途の川、現在の日本のお盆の習俗(きゅうりやなすで馬・牛を作る)などに似ていると思います。何か関係があるのでしょうか。

いわゆる地獄の具体相は、仏教と在来宗教との融合によって、中国では隋唐の頃、日本では平安時代に形成されてゆきます。中国の孟婆、日本の脱衣婆などは、この時期以降に形成されてゆく新しいものですね。旬の夏野菜で作る馬と牛(往路は馬で速く、復路は「…

遠く離れたギリシャと日本で同じような神話が存在することに驚きました。これは、何らかの形で伝播したということなのでしょうか。 / どこか他の地域にも、黄泉国神話と類似する神話はありますか。

こうした神話や伝承の類似は、世界各地にさまざまの局面でみることができます。例えば、グリム兄弟によって採集されたシンデレラは、やはりほぼ同じ物語が、中国唐代の『酉陽雑爼』に確認できます。歴史学者のカルロ・ギンズブルグは、伝承の背景にユーラシ…

横穴式石室において、九州では棺が使用されなかったとのことですが、それはなぜなのですか。

死者観と他界観、埋葬儀礼の相違なのでしょうが、棺を使用しない埋葬方法の場合、石室全体がひとつの棺なのだと理解することができるでしょう。王塚古墳などは、それゆえに玄室内が執拗に装飾されているのだとみることもできます。

花岡山古墳には24体も遺体が収容されているとのことでしたが、どのように収められていたのでしょうか。

実は、24体は最少確認体数で、盗掘を受けて遺体も原位置を留めていなかったため、もっと多くの遺体が葬られていた可能性があります。花岡山の場合は木棺に複数の遺体を「詰め込む」形式であったようで、木棺自体は4基確認されています。ひとつの棺桶にどれ…

石棺への遺体の収納は、どのように行われたのでしょうか。

伸展葬ですね。玉などの宝飾品などで飾り立て、武器や武具などの副葬品もともに収められます。

横穴式石室の導入によって遺体を目にする機会が増え、死者に対する認識が変化したとのことですが、具体的にどのように変化したのでしょうか。

遺体の損壊の様子から、逆に生への執着が強くなり、死後も生者と同じように暮らせる世界があるに違いない、死後の世界が存在するに違いないとの考えが発展したものとみられています。恐らくは横穴式石室とともに、すでに具体的な冥界観を持っていた中国の思…

古墳時代の人々は、何をもって人の死を認識していたのでしょうか。実際はまだ生きているのに、誤って埋葬してしまうことはなかったのでしょうか。

主に呼吸をしているかどうか、そして心臓が鼓動しているか、また死後硬直など身体の変化が重要なポイントだったでしょう。仮死状態にあるものを誤って埋葬してしまうという話は、近代に至るまでいろいろ聞かれますが、古墳時代の(古墳に埋葬されるような)…