2016-06-02から1日間の記事一覧

天台的な狭義の猿は、比叡山以外でもみられたりするのでしょうか?

あらゆる天台宗寺院に共通するものではありませんが、それこそ東叡山たる寛永寺や、日吉大社の末社である各地の日吉神社には、猿の造型をみることができます。

キリスト教では、定期的に公会議が開かれて教義の統一が図られていましたが、仏教ではそのようなことはないのですか。

新たな宗派が起こってくるとき、あるいは宗派内で新たな解釈が生じてくるときには、当然それに対する反駁が立って議論がなされます。宗派内の場合は、それを通じて正当性がいずれにあるかが判定されますが、仏教界全体の場合には、トップに立って真偽を判定…

煩悩にまみれると、仏と世界が別々のものにみえてしまうと言っていたが、仏と世界が同一にみえるとはどういうことなのだろう。

つまり、我々があらゆるものを分節、区別して把握していること、例えば動物/植物/人間/無生物といったカテゴライズなどは、すべて浅はかな知識によって仮構されるものに過ぎない。それゆえに、その区別を通じて種々の排除や疎外が起き、軋轢が生じ、とき…

覚阿が暴力を振るわれていますが、臨済禅というのは、考えを理解できない頭でっかちには力で分からせるような、体育会系の雰囲気を孕む宗教なのでしょうか?

仏教における修練とは、身心合一のなかでなされるべきものですから、身体の修練は欠かせません。現在の日本天台宗でも、千日廻峰行という、1000日の間、毎朝比叡山の峰々を縦走する荒行が存在します。歴史上、紆余曲折があるのですが、当時の日本仏教は知・…

覚阿は、どのようにして複数の外国語を学んだのでしょうか。

慧遠との筆談の問答をみると、覚阿の語学力は主にリーデイング・ライティングであったようですね。基本的に、当時日本で読まれた仏教書は漢文か梵文で書かれていますので、それらに精通してゆくということは、すなわち漢語・サンスクリット語に精通してゆく…

菩薩と十二神将が同一と捉えられることに、違和感はなかったのでしょうか。

本地垂迹などの考え方が進むと、結局あらゆるものが結びつけられ、融合させられ、同一視されてしまう世界になります。本覚論的な世界です。違和を説明するどのような筋道が立っているかが重要になるので、それが説得的であれば問題とはみなされなくなってゆ…

◎23の『耀天記』は神道大系が出典になっていますが、神道の文脈においてはどのように用いられているのですか。神仏習合の側面で、仏教関係の書物も入っているのでしょうか。

誤解があるかもしれませんが、神道の歴史のなかでいえば、近代の神仏分離以降の「純粋な神道」が異常なのです。近世以前は、伊勢神宮を除き神仏習合が当たり前の状態なので、中世の神道関係の書籍などは、みな仏教的要素、儒教的要素、中国的要素が混入して…

女性の嫉妬や悪行によって、蛇や猿へと変化してしまう。しかし、双方ともに神聖な動物であって、あまり酷い転生ではないように思うが。

以前にも言及したことのある『成実論』では、瞋恚を抑えられなかったものが蛇や蠍になり、落ち着きのなかったものが猿猴に転生すると書いてあります。いずれも、あまりよい位置づけではありません。授業でお話しした蛇や猿が威力のあるものと描かれているの…

蛇のイメージは、西洋でも同様なのだろうか。『聖書』などから、ずるい狡猾なイメージがあるのだろうか。

西洋では、蛇は死と再生を繰り返す不死の象徴です。現存最古の神話であるメソポタミアのギルガメシュ神話では、冥府に赴いたギルガメシュが獲得した不死の薬草を、蛇が奪って食べてしまいます。ゆえに人間は死すべきものとなり、蛇は不死になったという起源…

「道成寺縁起」について、土佐光重の画に出てくる清姫は、蛇というより龍のようでした。それは画家の想像なのでしょうか。

当時、神的な威力を持った蛇を描くには、龍の表象を採らざるをえなかったのです。こうした表象の選択によって、中国では皇帝の象徴であった龍も、次第に罪深いものと認識されるようになってゆきます。中国に定着した仏教の世界観では、龍は、東西南北の海を…

完成された「道成寺縁起」では、安珍も清姫も畜生道に落ち、僧の『法華経』的作善で成仏するという展開だったと思いますが、この「『法華経』はとてもありがたいものだ」という落ちにいまひとつ納得ができません。どちらかというと、安珍が清姫を騙したという因果応報の戒めだと思っています。何でもかんでも仏教に繋げてしまうことは、当時の風潮で当たり前のことだったのでしょうか。

もともと『法華経』の霊験譚として作られたものなので、『法華経』の素晴らしさを喧伝して終わるのは、形式として当然なのです。『法華経』提婆品は、変成男子による女性救済を説く経典として著名であり、それゆえに女性の罪業の強調、その救済という文脈に…

山はしばしば神体として扱われますが、現代においても採掘作業などで崩れてゆくように、古代において大規模な自然破壊はあったのでしょうか。

日本史概説や全学共通日本史でも毎年話をしていますが、古代は開発による自然破壊が大規模に信仰し、自然神を王権が圧伏する「神殺し」が喧伝された時代です。宮都建設が繰り返された淀川水系上流域では山林資源が枯渇し、川に流れこんだ土砂によって、8世…

「自然環境の仏教的救済」は、面白いテーマだと思いました。草木の擬人化的発想に乏しい中世では、どうなのだろうと思いました。

中世が草木を擬人化する発想に乏しい、ということはありません。むしろ、古代の方が樹木を樹木として扱い、中世以降の方が擬人化する傾向が高まります。樹木の精と人間との婚姻を語る樹霊婚姻譚は、樹霊が女性の場合は「三十三間堂棟木の由来」、男性の場合…

カワラ神宮の表記が、「賀春」になったり「香春」になったりするのは、途中で表記が変わったからなのですか。

歴史上、人名や地名などに複数の表記が存在することはよくあり、香春の場合もそのひとつです。『叡山大師伝』では「賀春」ですが、ほぼ同時期の『続日本後紀』承和4年(837)12月庚子条には、「豊前国田河郡香春岑神」と出てきます。どちらが古い、どちらが…

香春岳の近くには、平尾台や秋吉台がありますが、同じ石灰岩質でも香春岳が重視されたのは、景観として目立つ山だったからでしょうか。

香春岳は福岡県といっても大分県に近い地域、秋吉台や平尾台は山口県ですから、それほど近いわけではありません。しかし、博多に到る途中の交通の要衝である遠賀川沿いの山塊ですので、古くから霊地と認識されていた場所のようです。祭神は神祇信仰的文脈で…