2016-07-01から1日間の記事一覧
いえいえ、たとえ近代国家、現代国家が行うことでも、残酷行為は常に「野蛮」との観念で表象されます。例えば、日常の残酷事件でも「人間のやることではない」などと形容されますが、それは「人間」を文明の象徴として持ち出してるからです。残酷=野蛮な行…
以前に配付資料に引用したとおり、「飛鳥浄御原宮に御宇しめしし天皇の御世、甲戌の年七月十三日」という日付が出てきます。天武天皇二年(673)、と考えられています。そうして現状の記録がなされたのは、『出雲国風土記』勘造の天平五年(733)。本文に、…
ご指摘のとおりですね。上に答えたこととも関連しますが、殺生功徳論によっては罪業論は解消されませんでした。むしろ罪業論が強固であったために、功徳論が意味を持ったのです。屠殺業者・皮革業者は、権力にとって、社会にとって必要な存在でした。権力は…
仏教的価値観のメインは、やはり殺生罪業論であったといえるでしょう。その価値観は、現在に至るまで広く普及しています。その浸透力、強固な定着の結果として、漁業の盛んな地、狩猟や屠殺に関係する地には、鳥獣魚をめぐる供養塔が立ち、林業地帯には草木…
イスラム教にしてもキリスト教にしても、絶対的正義に対立するものを滅ぼしても構わない、という教説が出現することがあります。宗教が正義を主張して排他的になり、自己批判を怠るようになると、必ずこうした考え方が生まれてきます。自分たちだけが正しい…
前にもお話ししましたが、仏教は基本的な世界観として、現生の生命のあり方は仮の存在であって、必ずしも人間を中心とはみなしていません。ある動物が人間の転生したものだったとしても、その前は別の存在だったかもしれない。おおもとは○○だったという定義…
古典でいうなら、佐伯有清『牛と古代人』ですね。その他、『動物の日本史』でも牛を扱った章がありますし、新川登亀男さんにも、牛に関係する包括的な論文がありますし、『霊異記』の堕牛譚に関しては、『歴史評論』の『霊異記』特集に、藤本誠さんとぼくが…
「馬の耳に念仏」などと同じ系統ですね。しかしどうも、これらの諺は、あまり仏教的ではないように思われます。仏教が通俗化する過程で、恐らく仏教文化の周縁、民衆の側から発生した俚諺でしょう。宗教の系統でいうなら、どちらかといえば、人間と動物を截…
うーん、仏教では、霊獣も神の化身でなければ、やはり人間より下なのです。授業で紹介した『成実論』には、「若し少しく施分有らば、畜生に生まると雖も、中に楽を受くこと、金翅鳥・龍・象・馬等の如し」とあって、悪業のなかでも少々布施を行うなど善業の…
「人虎伝」に限らずとも、中国には、人が虎に変身する物語はたくさん存在します。もともとは、虎をトーテム動物と崇め、毛皮を着込むことで変身する祭祀、儀式などを語るものだったのでしょうが、六朝の頃より、次第に虎への変身がマイナスの印象で語られる…
うぅ…何か身につまされますね。いわゆるアニミズム的な価値観においては、獣と人間を分けるものは「毛皮」でした。それゆえに獣は毛皮を脱ぐと精霊=人間の姿になり、人間が毛皮を着ると獣に変身できたのです。このような発想を基盤として、多毛が未開や野生…
この2つの考え方は矛盾しますが、別の面では相乗効果を持っていたのです。すなわち、嫌悪感を抱いている動物に自分が生まれ変わるかもしれないと考えれば、それを防ぐために努力をするでしょうし、大切な人が生まれ変わっているかもしれないと考えれば、憐…
そうなんです、というとあまりにも無責任ですが、矛盾に満ちています。類書は恐らくインデックスとしての機能も持っており、そこには諸説を検討して結論を出す、という作業は求められていなかったと思われます。
例えば、北宋の『太平広記』などは、『法苑珠林』と並んで多くの志怪小説、伝奇小説の逸文を集め、中国中世の説話研究、思想研究には重要な意味を持っています。全500巻、1年余りで完成していますが、勅命を受けた12名が編纂に当たっていますね。一方の『法…
うーん、ちょっと違いますかね。仏教では、人間の抱く精神的な苦しみ、悲しみのなかで、最大のものは愛別離苦であるといいます。愛する者と別れるのが最も辛いのだ、ということです。つまり、その現実を直視して、そこから解放されるにはどうしたらいいかを…