2016-07-08から1日間の記事一覧

仏教説話では、動物はしゃべるが植物はあまりしゃべらないな、と思いました。これも、無情のものと考えられていたからでしょうか?

そうですねえ、樹木神は普通に話をするのですけれど。しかし、日本列島に最も広く分布する昔話である大木の秘密(ある巨樹を伐ろうとするが、切り口が翌日になると再生してしまっていて、いくら伐っても伐れない。疲れた木樵の一人が夜、木の下に宿っている…

寺において、大木を信仰することはあるのでしょうか?

あります。授業でも紹介したように、釈迦が覚りを開いた菩提樹は、仏教的真理の象徴です。これも授業でお話ししたかと思うのですが、かつて仏像による偶像崇拝がなかった時代には、菩提樹が仏の象徴としてストゥーパのレリーフに造型されていました。列島最…

日本では、山や森林が多いので、草木成仏論が追究されたのでしょう。草木というと生命のあるものですが、石などの無生物も含まれるのですか。

「草木成仏」というと、確かに土や石などは指さないかにみえますね。より範囲の広い議論でいうと、「無情成仏義(非情成仏義)」ということになります。ここには、無生物の問題も含まれてきます。「草木国土悉皆成仏」「山川草木悉有仏性」もやはり天台系の…

吉蔵『大乗玄論』への言及があったが、「〈成仏〉さえ仮の言葉なのだ」という内容が気になった。真の意味とはどういったものなのか。

『大乗玄論』のなかでは、仏法の真理が世界に遍満しているのであれば、あらゆる区別や分節は煩悩に遮られた人間の認識が生み出してしまうもので、本当には存在しない。成仏とは、「仏でなかったもの」が「仏になる」ことであって、そこにも差別や分節が存在…

なぜアニミズムの串刺しのあり方が、仏教の残酷な串刺しのイメージと、共存できなかったのでしょうか。

列島在来の、地域的特徴を強く持った祭祀のあり方が、長い時間を経て解体されてしまったからでしょう。それは仏教が攻撃対象にしたのと同時に、神道の側の責任も大きいと思います。かつては各地の神社も生業とともに存在し、魚肉を供える祭祀、生け贄を奉る…

串刺しが残酷なものと捉えられるようになったのは、説話のなかで描かれていたから、ということだけなのでしょうか。

説話は、現在のような単なる読み物ではありません。それが唱導に利用され、寺院での絵解き、法会での法話、辻説法などを介して社会に広がると、浸透力のあるものは口伝いに拡散して各階層へ定着してゆきます。地獄の物語のように人間の暗い好奇心を刺激する…

神の顕現としての串刺しのあり方は、列島社会独自のものなのでしょうか。アニミズムとの関係でいうならば、普遍的な広がりを持っていてもおかしくないと思うのですが。

この問題は重要ですが、私のなかで、未だ充分な考察ができていません。ただし、上にも少し書いたように、いわゆる磔刑の成立が、タツことと関係するのではないかと考えています。すなわち磔刑とは、神送りに準えて、人間の霊魂を他界に送るための所作だった…

タツことが神の顕現である割には、神像は座った姿が多いと思うのですが。

立像もそれなりにありますが、坐像もありますね。坐像が多いのは、神像が仏像をモチーフにしたことと、天皇の臣下として衣冠束帯を着用に礼を示しているためです。また、顕現する意味でのタツはあくまで現れることであって、動作・状態としての直立のみを意…

『春日権現験記絵』に、病人の吐いたものを犬が食べている場面が描かれていましたが、これは何らかの宗教性があるのですか?

犬が嘔吐物や排泄物を食べる場面は、多く絵巻などに描かれています。犬に対する穢れ観、忌避感の展開と関係がありますが、宗教性を表現しているわけではありません。あえていうならば、九相図において人の遺体を食い荒らしている犬と同じ、現実の残酷性や汚…

仏教の殺生を悪とする姿勢が前提としてあるとはいえ、地獄の描写において串刺しが描かれるようになったのはなぜなのでしょう。

確かにそうですね。串刺しの残酷性については、何らかの作用によって歴史的に構築されてきたのだという視点のほかに、生理的な嫌悪感、危機感なども反映している可能性があります。地獄の責め苦については、とくにそうした問題を考える必要がありそうです。…

『霊異記』の橘奈良麻呂の話ですが、神霊に関わる行為だというだけで串刺しにしているのでしょうか。わざわざ神として送るために行ったとは考えにくいのですが。

説話を読む場合には、それがいかなるモチーフを題材として、どのような物語りを語ろうとしているのか、説話の主体はいかなる個人/集団で、ストーリーには原型があるのかないのかなど、その複雑な重層構造を多角的に分析してゆく必要があります。その内容の…