2017-04-28から1日間の記事一覧

島国である日本では、戦乱があっても逃げ場がなく、大陸へ向かって逃げたという話も聞いたことがない。それはなぜなのだろう?

沿岸の人びとの場合には、海を交通路として他地域へ逃亡することは、広く行われていたはずです。近代に至るまで、列島沿岸の漁民の世界は、内陸とは異なる広汎なネットワークを持っていました。朝鮮半島との間にも庶民レベルで交流があり、九州や中国地方の…

ヤマト王権が移民を自国の運営に組み込んでゆくことに、渡来人たちは反発がなかったのだろうか?

やはり倭王権の支配地に移住をするわけですから、その管理下に入ることはやむなしとされたと思います。とくに、朝鮮における王朝の興廃のなかではじき出されてきた人々は、一方では故国の再興のために倭王権の援助を必要とし、一方では倭王権のなかで高い政…

日本へ渡ってきた数千に及ぶ渡来人に、日本語教育などは施したのだろうか?

それはないでしょう。例えば東国へ開発のために移住させられた人々は、その集団内では母国語で生活していたと思われます。しかし行政との関係や、周辺地域の住民との交渉上、次第にヤマト言葉を使用せざるをえなくなってゆく。長い時間をかけて、日常生活の…

南北朝時代になると血縁的繋がりが強くなり、また各々の集団が生業を営んでいたと授業で習ったが、その生業は世襲のものではなかったのだろうか?

通史的な理解は、常に例外を生み出し、それを排除することで成り立っています。南北朝時代も、どの時代、どの地域、どの階層に注目するかでずいぶん異なる様相がみえてきます。いわゆる士大夫階級に注目すれば、胡族王朝に抑圧されて江南へ移動してきた北人…

◎5の史料のように、危機的情況を利用して、自身の権威や支配領域を拡大しようとしている様子に驚いた。そんなに蓄えがあるならば、自分のもともとの領民に与えればよいのにと思うのですが、諍いなどは起きなかったのでしょうか?

現状地域の固定化にのみ腐心するか、躍進を狙って冒険的施策を試みるかで、そのあとの同勢力のポジションがまったく違うものになってくる、ということでしょうね。そうした政治方針に対して領民から不満が生じるか、生じても理解を得ることができるかどうか…

徙民政策における民心の安定のために、賢人を集め重要な役職に就け…とありましたが、実際に現代において賢人を集めてもそううまくはゆかないので、どの程度効果があったか疑問です。

賢人云々は、移民集団のなかから才能のある者、人望のある者を指導者・管理者に抜擢するということで、集団の混乱を鎮め安定を促進させる機能を期待したものです。例えば塢堡のような集団であれば、移動のなかで頭角を現した指導者が帰属後も引き続き統括役…

僑県郡のような徙民政策は、明治の北海道開拓によく似ていると思いました。このような民衆の移動は、世界的にみられるものなのでしょうか? / 徙民政策はいつまであったのでしょうか?

そうですね、まさに明治の北海道開拓移民などは、徙民政策の一種でしょう。そのほか、近代におけるハワイ、南米、アジアなどへの国策移民も、(強制ではありませんが)徙民政策と考えて差し支えないと思います。移民・植民に関する研究は、現在世界的に盛ん…

徙民政策などで移動させたという人民の数が、日本とはスケールが違い驚きましたが、それらはどの程度正確なのでしょうか?

ほとんどが正史の記録で、行政文書などを基礎にしつつ、後継の王朝において編纂されたものです。批判的筆致が強くなることはあっても、不用意な誇張は後世の非難を生じますので、ほぼ正確と考えてよいだろうと思われます。

塢堡の話のなかで、漢族・非漢族の双方を含み込む形になったとありましたが、それで住民間に摩擦などはあったのでしょうか。

当時の史料を読んでみると、例えば胡族王朝は文人官僚として優秀な漢民族を抱え込み、当初は後者に憧憬をみせつつも、次第に胡族アイデンティティを前面に押し出してゆきます。その際、漢族/胡族の間で種々の軋轢、紛争が起きているのは確かですが、それは…

「国民は創られたものである」という言説の弊害だと思うが、我々はそれ以前の人々の地縁的感情を分かりづらくなっていると思う。そもそも、そのような感情は自然なもので、それを「国」という枠組みまで拡大したものが「国民」という意識なのだろう。

まず、前近代の国家と、近代の国民国家とは、明確に分けて考える必要があります。確かに、国民国家が構築したナショナル・ヒストリーは、個々の地域に生きた人々の持つ地縁意識、血縁意識を延長したものではありますが、それらとの齟齬も大きく、統一には大…

祖先信仰があった地域では、故地を離れるのは難しいとあったが、民族移動は、旧世代と比べ新しい発想だったのだろうか。 / 民衆まで祖先信仰が浸透していたかどうか…という話があったが、史料がないので一概にはいえないと思った。 / 祖先信仰が強いから移動は難しいという発想は、中国=儒教という先入観によるものではないだろうか?

例えば列島の縄文早期末〜後期には、集落の離散/再統合が繰り返されます。その際に、再統合の際の作業として人骨の再埋葬墓が出現するのですが、これは集落が結集する際、それぞれが所持していた祖先の骨を一緒に埋葬し、統合の象徴としたものと考えられて…

人類の遊動的性格については、アジア以外の国々でもいえることなのですか?

ホモ・モビリタスの説明でもお話ししましたが、そもそもアフリカから人類が世界へ次々と移動していった、そのことがまずすべてを物語っています。クロマニヨン人の出現が3万年前であり、農耕の開始が1万年前前後とすれば、人類はそれまでの2万年の間、移…

長期にわたる大集団の移動とは、具体的にどのような形で行われたのだろうか。

考えてみますと、例えば統一秦末期の群雄割拠状態でも、数千数万の武装集団が長距離を移動していますね。移動の過程で複数の村々から物資の提供を受けたり、あるいは掠奪を繰り返すグループなどもあったようです。しかし塢堡のような事例は、あまり無理なこ…

日本国内の花粉による古気温曲線の構築は、どの程度進んでいるのでしょうか? / 花粉を使って気候の変化を考えることは理解できたのですが、花粉をどのようにみつけるのか、花粉は長い間残るものなのかが分かりませんでした。

花粉の分子構造は比較的強固で、種によって特徴ある形態をしており、例えば1万年以上前のものでも、いかなる植物種のものか判別可能です。古気温曲線を構築する場合、あるいは周辺の植生を復原する場合には、長く低湿地の状態にある場所を選ぶのが望ましい…