2017-06-02から1日間の記事一覧
清朝の役人と密接に交渉するような経験を持っていた者、そうした立場にあった人間のなかには、満州語を介する人もいたでしょうが、やはり一般的ではなかったと思われます。ましてや文字については、アイヌ自身が文字を使用しない人々ですので、読み書きでき…
とあえずは、地域的偏差、すなわち方言ということで説明できそうです。北海道アイヌは和人との接触、樺太アイヌや千島アイヌは他の北方狩猟民や漢人との接触が多く、それゆえに相手の言語や文化にも大きく影響を受けたと考えられます。『皇清職貢』の「庫野…
サルガンジュイとなった女性たちの父親は、三等侍衛、護軍参領、前鋒、馬甲、驍騎校、委署親軍校などとなっていますが、これらはほとんど禁旅八騎、すなわち北京において皇帝を守護する親衛隊の一員です。彼女たちにとって、辺境の有力者の妻になることは、…
地方によって、品質に基づくかなりの相違があり、樺太のクロテンの毛皮は、北海道のそれの4倍の価格であったといわれています。近世の貨幣換算記録(松前藩の買い取り価格)が残っているものでも、やはり樺太が最も高価で121.5文、十勝では32文、根室や釧路…
これまで指摘されてきた史料では、天文20年(1551)頃、若狭守護武田義統が、室町将軍足利義晴にラッコの革袴を献上していることが分かっています。若狭武田氏は、蠣崎=松前氏の祖武田信広がその故郷であり、嫡流と語ったところですので、ラッコの献上につ…
アイヌ社会が交易に対する依存度を強めてゆけばゆくほど、交易品と効率的に生産する必要が生じてきます。クロテンやラッコの毛皮などは、自分たちで消費するために狩猟・生産する場合と、交易品として狩猟・生産する場合とでは、維持・確保しなければならな…
中華王朝にとって夷狄とは、その未開性・野蛮性を強調することで自らの正当性を喧伝する材料ですが、同時に皇帝の徳を行き渡らせ文化化してゆかねばならぬ対象でもあるわけです。また、中国のような広大な領土を持つ国においては、辺境に中央地域と同じよう…
蝦夷地に暮らすアイヌを、13〜14世紀の段階で本州以南の「日本」と同一視する発想は、周辺の諸国においてはなかったと思います。やはり同時期に書かれた日本地図「行基図」にも、樺太はもちろん北海道すら描かれていません。中央政府すら、19世紀前後までは…
この2つの質問は、質問/回答の関係になっていると思います。マイノリティーとは非常に相対的な概念なので、抑圧がどのような局面・情況において起こっているのかが重要です。例えばぼくが調査に訪れたことのある中国雲南省の麗江では、納西族ら少数民族が…
重要なことですね。アイヌの人々に関しては、どこかで「土人」表象が刷り込まれているといえそうです。ぼくらの子供の頃は、ふつうに「土人」という言葉がまだ使われていましたが、1980年前後でしょうか、差別用語として公には使用されなくなりました。「土…
描かれ方からすると、美術品的位置づけが濃厚であったと思いますね。少なくとも、単なる記録ではない。松前藩がアイヌを従えている状態を、喧伝するために描かれたのだと思います。次回にお話しできると思いますが、清朝に、『皇清職貢図』という書物があり…
ありえますが、実際はそう多くはないでしょうし、古い時代ならばありえなかったでしょう。「民族」が社会的・文化的概念であって生態的概念ではないというのは、あくまで客観的な分析対象として、ということです。例えば、56の民族がひしめく中国など、人種…
記録に残っているところでは、GHQによる占領の終了後、少なくとも2ヶ所で北海道大学による墓地発掘が行われています。ひとつは、1964年の、江別市対雁地区。千島樺太交換条約の締結で、明治政府が樺太南部のアイヌ108戸841人を同地区へ強制的に移住させたが…