2017-06-26から1日間の記事一覧
それまでの伝統的な歴史学が、praxisをなすものとしての個人に注目してきたのに対し、フェーヴルは、社会が個人を生み出す集合性の部分に着目をしたわけです。そうした観点から、伝記研究の刷新を図ろうとしたということです。これは、授業でお話をしたとお…
そのあたりは、まったく問題ないはずです。むしろ家康の神格化は、神道と一体となった仏教により進められました。家康を死後神格化することは、すでに豊臣秀吉が豊国神社に祀られた先例があるように、既定事項だったようです。事実、家康の葬儀を統括したの…
『太平記』にも多少語られていますが、岩松氏の祖先である新田義興は、南北朝の動乱において矢口渡で謀殺され、付近にはその祟りが吹き荒れたため、怨霊を鎮めるために新田神社が創建されたと縁起にあります。この物語は、のちに平賀源内によって肉付けされ…
授業では、「ユダヤ人はマイノリティー的立場で」とはいっておらず、「マージナルな立場にあって」と説明したと思います。マジョリティーのなかにおいてもマージナルな情況は発生しますので、両者は類似はしていても同一ではありません。マルクスは活動家で…
一言でいってしまえば、現在を理解するために参照できる枠組み、思考の道筋を増やすということです。西アジアにおける国際的な紛争、東アジアにおける領土問題などの現実からすれば、歴史が現代的諸問題の解決に資するとは、必ずしもいえません。多くは、政…
以前にもここに書きましたが、現代歴史学のひとつの到達点として、「人間は誰しも主観から逃れられず、それは矮小で偏った視座でしかない。しかしそれゆえにこそ、その人間にしか発見しえない過去の局面がある。狭小な主観しか持ちえない人間がそれぞれ過去…
もちろん構いません。時代、対象についてはまったく自由で結構です。
人間の遺体に対する執着は、時代的な変遷をしつつも長い間持続していて、仏教思想などで原理的に処理できるものではなくなっています。まず縄文時代において、環状集落の中心に骨を集めて共同体結束のよりどころにしたとき、列島文化において、〈祖先〉の概…
シミアンのセニュボスに対する批判は、あくまでセニョボスが「新興の社会科学は歴史学に学ぶべき」としたことへの反論です。当時、デュルケームらを中心とする社会学ほか、地理学や心理学、民族学といった社会科学諸分野が勃興し大きな成果をなし、その端々…
自分たちで派閥を組む場合ももちろんありますが、多くは自然発生的で、ものの見方や方法論、思考様式を同じくするグループを、とくに同じ大学や研究機関、強固な師弟関係から成っている場合、〈学派〉と呼ぶことが多いですね。ちなみに授業でも注意しました…
フェーヴルは、ナチス・ドイツへの敗北後に成立しそれへの迎合的姿勢を強めるヴィシー政権に妥協し、何とか『アナール』を継続させる道を選んだようです。その間、ブロックが処刑され、その教え子アンドレ・ドゥレアージュも処刑、デュルケームの弟子であっ…
まあそれはケース・バイ・ケースでしょうね。しかしフランスの人文・社会系学問の場合、好き嫌いなどの問題は、社会に由来する部分と個人に由来する部分とを分けて考える場合が普通ですね。一般には、好き嫌いは個人に帰せられてしまいますが、実はデータを…
マルクスの唯物史観とブローデルの三層区分が異なるのは、以前に授業で指摘したとおり、まずはpratiqueとpraxisの相違になりますね。マルクスの場合、歴史を展開させる革命は、イデオロギーから解き放たれた自由な個人の自覚的な実践によりますが、ブローデ…
社会科学とは、ヨーロッパにおける学問のありようを3つに区分したときのカテゴリーの1つです。もともと人文科学として未分離であった学問から、科学革命を通じて自然科学が分離し、20世紀前後に集合性を扱う分野として社会科学が分岐します。まさにその流…