2017-07-07から1日間の記事一覧
これは、上の回答に対する正反対の心的態度を醸成することが肝要です。ひとりひとりの他者に注意を払うこと、その重みをしっかりと受け止めてゆくこと。もちろんそれは極めて困難なことなのですが、可能な限り実践できるなら、差別や戦争に対する強力な抑止…
日本列島の場合には、歪に肥大した衛生観念と密接に繋がった差別的認識、そうして何より、ここの具体的な問題やひとりひとりの他者に対する無関心だろうと思います。ひとりひとりの抱える事情、彼らが歩んできた道のり、苛酷な現状に対し、眼差しを向けない…
恵楓園という名称になったのは1941年ですが、その前身は九州療養所ですから、もともとは1911年にまで遡ります。しかし、恵楓園はあくまで公権力に基づく施設で、1931年の癩予防法に基づき強制収容を進めるものでしたので、それを恐れ嫌がった病者たちが本妙…
八紘一宇の言辞は、それを創作した田中智学が説くように、日本〈民族〉と日本文化の優生性を強調するものです。その優生性の表明を疎外するような要因は、〈誤り〉〈例外〉として削除、隠蔽しようとするベクトルが生じることは、想像に難くありません。そも…
当時の『大分新聞』では、焼け出された在郷軍人の次のような証言を記載しています。「国の勝手な時に国の軍人と言い、命を的に戦場で働かせ、時によっては乞食扱いにされて家を焼かれ、また、生きていく望みまで奪うとは実に闇の世界だ」。当時のジャーナリ…
的ヶ浜隠士は、恐らく同地域の浮浪者たちを援助していた真宗木辺派の僧侶、篠崎蓮乗であったと思われます。彼の抵抗運動と、憲政会系の地元紙『大分新聞』が官憲を糾弾する論陣を張ってゆきます。篠崎は、当時反差別の活動を開始していた水平社に協力を求め…
結論的にいえば、それが近代の特徴ということになるでしょう。中世から近世、そして近代へと至る時代の流れは、公権力の画一性と社会への浸透が徐々に強まってゆく過程と捉えることができます。例えば検地の歴史をみても、それぞれの地域で別々の基準を持ち…
もちろん、近代における「浮浪癩」の時代は、クリアランスによって行き場を失った病者たちが、落ち着く場所を求めて彷徨した時代ともいえます。ただし、近代は保養所以外に彼らの居場所を設定しなかったので、これを「過渡期」と称するのは間違いでしょう。…
伊勢神宮は、穢れを排除することによって神聖性を保つ伝統的神社の最たるものですから、基本的にハンセン病者は排除していたと思われます(奈良時代の一時期の神仏習合状態を除き、その神域からは、原則として仏教や僧侶も排除していました)。一遍の伝記『…
業病という言葉は、前世の悪業によって、因果応報として被った病、それゆえに通常の医療では治癒不可能なもの、という含意があります。これは、中国の南北朝から隋唐の時代にかけて、仏教が権力からの廃仏に抵抗して作り上げた言説で、当時の仏教を擁護する…
これについては、ぼくもまだ実証的に理解できていません。元禄〜享保期の仙台藩では、ハンセン病者の宿貸しの実態に対し禁止措置が出ていますが、同様のことは列島各地でみられたようです。宮前千雅子氏の研究によれば、加賀藩のいわゆる癩村「物吉」でも確…
ドイツのT4作戦のような組織的虐殺は行われませんでしたが、やはり、徴兵や生産労働に「役に立たない」とレッテルを貼られた障がい者が、社会的抑圧を受けたことは確かです。いわゆる社会的弱者は、社会自体の疲弊によって、最も困難な情況に曝されます。例…
1964年の東京オリンピックの際には、東京の景観は一変しました。よく知られていることですが、未だ江戸期の面影を残していた縦横無尽の水路、河川がほとんど埋め立てられ、あるいは暗渠になり、買収の必要のなさから、首都高はほぼ河川の流路のうえに建設さ…